玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

祭り・イベント

高円寺の阿波踊り――歩けない、動けない、踊りが見えない


高円寺の阿波踊り――歩けない、動けない、

踊りが見えない


阿波踊り高円寺

2019年8月26日(月)


昨夜は高円寺の阿波踊りに出向く。
あまりの人の多さに、思うように歩けず、動けずで往生し、
1時間ほど居て吉祥寺に移動。飲んで帰っただけ。

高円寺駅で電車を降りたホームからすでに激しい混雑状態。駅員さんが大声を張り上げながらロープで階段整理をやっている。

改札口を出ると、防護柵やロープで固められた通路があり、行けるのは決まった方向のみ。

高円寺の会場すべてが移動するだけ、歩くだけでも遠回り、大回りしないと行けない。
もちろん、会場全体がそっくり満員電車状態にあり、熱気で沸騰している。

ぼくが過去に見たのは、駅南側の大きな通りで演じられる「中央演舞場」(演舞場といっても、道路や通りです)での踊りのみだったが、

昨夜見たのは、これまで見ていないより小さな商店街の踊りで、
駅北側の「純情演舞場」(純情通り商店街です)や、
駅南側のアーケード通りの「パル演舞場」などだった。

もっとも狭い通りだから、通りの両脇はすでに人で埋まっていて入りこめる余地はない。
それに警察が警備のために各演舞場の入り口(踊りのスタート地点)と出口(踊りのゴール地点)を防護柵やロープで固めてあり、入ることすらできない。

なんだ、入れないんだ……とがっかり。

そこを通れるのは、踊りの各連のみ。
スタート地点だと、ある踊り連がそこにやってきて、ロープが開き、入り、踊りの用意。
そこでロープが閉まる。そして太鼓や囃子とともに踊りだし、通りを動きだす。

すると次にまた、別の踊りの連がスタート地点にやってくるという仕組み。

だから、スタート地点とゴール地点では、如何にスムーズに演舞場に次々と各踊りの連を引き入れるか、引きだすかが大きな役割。
それを満員電車並の激しい雑踏のなかでやり続けるのだから、誘導・警備もじつに大変。

昨夜はそれで、それぞれの演舞場のスタート地点とゴール地点を確認したのみ。

ちなみに、僕はイベントも手掛けるので、その仕事観から、約100万人(二日間)という観衆だから、警備の警察官は1000人以上いるのではと思いつつ、警備の警察の方に尋ねたら、その半分以下の480名程度とのことで、驚きました。

でも、警備や誘導には警備会社も参加しているし、地元の関連団体からも出ている。それらを合わせると、やはり1000名超になるのでは……。

とにかく、疲れるばかりの阿波踊りだった。









府中大國魂神社「くらやみ祭り」の山車巡航と、各地の山車の映像を比べて見てみた……


府中大國魂神社「くらやみ祭り」の山車巡航

と、各地の山車の映像を比べて見てみた……




2014年5月5日(月) こどもの日


IMG_1294
くらやみ祭り山車の巡行(クリックで拡大)

IMG_1281


IMG_1285




「channel とっきー」さんより


関東三大祭りの一つに「世良田祇園祭」がある。

と言われても、
「知らない……世良田ってどこ?」

「世良田の祇園祭って?」

と思うのが、東京の人の大半ではないだろうか。

僕も昨日までは、そうだった。

世良田とは、
群馬県の太田市に在る一つの区域だ。

歴史をさかのぼると、
新田義貞で知られる中世の武士団、新田氏一族が治めた荘園
新田荘(にったのしょう)を形成していた地域らしい。

ところで関東三大祭だが、

この「世良田の祇園祭」、

それに「神田明神の例大祭」と

「秩父の夜祭」を指す。


世良田は最近、往時の姿を復活させつつあるとのこと。

それでこの世良田だが、
この地が徳川将軍家こと「徳川発祥の地」だということを知るに及んだ。


個人的には、祭りよりむしろこっちの事実の方に興味を覚えた次第。

少しだけ触れると、
その一角を譲り受けた徳川家康の先祖(新田氏から派生)が「徳川」という地名に改名し、
自らも徳川姓を名乗る。

現在も太田市内の利根川に面した一角に「徳川」という地名があり、
近くの世良田には徳川家康を祭った神社「世良田東照宮」も在る。

ついでにもう少し。
南北朝時代南軍について敗れた家康の先祖の徳川氏は、
流浪の果てに今の三河の松平家に婿として入る。

そこから七代を経て家康が誕生する。

家康は三河統一を果たしたのち、
先祖にあやかり
(松平から)徳川を復姓して名乗ることになる。

と、ひとくさり記したのは他でもない
昨日、府中大國魂神社「くらやみ祭り」の山車の巡行を見てきた
からだ。

上記の三大祭は、もともと江戸時代に江戸市中で開催されていた絢爛豪華な「天下祭」を受け継いだもので、背高のっぽの「一本柱万度型」の山車や大型の飾り屋台や舞台屋台が列をなしたと言われている。
(※天下祭=赤坂日枝神社の山王祭、それに神田明神の祭り、根津神社の祭りを将軍家が保護し、将軍が上覧(貴人が見ること)したのでそういう名に)

今日5日は、ちょうどこれから、くらやみ祭りのハイライト「神輿の渡御」がある(7基の神輿と5張りの大太鼓の巡行)。

ところでこの山車だけど、祭りのときの「山車」と「屋台」の違いって分かりますか?

最近ではかなり曖昧になってるようですけれど。また、電線などの影響で高い山車が引っ張れないなどもあって。

本来の山車は、飾りがあって、上述したように「一本柱万度型」で昔は丈の高いものだったようだ。
たとえば川越祭りで見ることができる山車の上に人形が乗った二層の形式とかですね。屋台は文字通り屋台で、たとえば囃子方や演じ手だけが乗る、動く簡易な舞台を想像してもらえばいいでしょう。でも、これが最近では曖昧に。

話をもどそう。
旧甲州街道に府中市内の各町内からの山車が次々と引かれて登場(昨日の4日です)。もちろん沿道は人の波で溢れている。

ぼくはその山車に多少の物足りなさを感じた。

山車には笛や太鼓の囃し手と共に、歌舞伎や狂言を模した演じ手が乗っていて、身振り手振りを交え踊ったりして演じている。

この演じ手が今一つ物足りない。

というのは、山車の上の「演じ手」で、残念ながら、沿道の人々をうならせるほどの「これはと思える」見事な技量の演じ手がいなかったことだ。それに半数の山車の演じ手が大人ではなく子供で、囃子方も同様に子供たちなのだ(大きくとも高校生かな)。

大人はまだそれなりの動きをしているけれども、子供たちはほとんどがただの身振りと手振りのみで、演技以前、演じ手以前で、沿道の観衆の気を誘うほどのものはなく、見ていて物足りなさを感じた次第。

おそらくそれは、立派な山車と比べると、そこに乗って演じている演じ手の技量との乖離がありすぎるのだ。子供たちの演技とも言えない単なる身振りや手振りが、どうしても山車の豪華さと比べるとふさわしくなく見劣りしてしまう。

豪華な山車という相応の舞台があるのなら、相応の芸が見たいし、見てみたい。

もちろん子供でも、相応の技を見せてくれるのなら喝采をおくる。

現に今回、映像で見た関東の他の自治体の祭りだが、かなりの稽古を積んだのだろう、子供ながら身振り手振りの動きや動作が洗練されていて眼を見張るものがあり、相当の技量を見せて踊っている演じ手もいて感心した。

いささか厳しい見方をするのは、本業とは別に僕がたまたまイベントの仕事も手掛けているからかもしれない。中途半端な出し物の仕掛けはしない、というポリシーもあって、僕の場合は出し物なら、すくなくとも演じ手が「魅せる」(=魅了する)だけのものをそろえる。まあ、そういう僕なりの考え方があるからだ。

それに全国で、こういう演じ手(特に踊りなど)を出し物にした有名な祭りには、必ず町内ごとに踊りなどの名人クラスの人がいて、相応のものを「魅せて」くれるから全国に祭りの名がとどろき、人気を維持できているのだ。素人であっても、そこには「魅せる」ための<演出>がおそらく存在している。

で、目の前を町内ごとの大きな山車が旧甲州街道を引かれて動き、たくさんの沿道の人がその山車で演じられる歌舞伎や狂言を模した演じ手なり囃子方を見ている。

山車では小さな子供が衣装だけはそれらしく装ってはいるものの、単に腕を振り体を動かしているだけで、踊りの所作にも動きにもまるでなっていない。もうすこし「ホンモノ」を見たいこちらとしては、それで物足りなさを感じたのだ。

とまれ、こうい演じ物は、踊りなどと違って、演者の絶対数が少ないし、後継者がいない、練習が出来ない等いろいろ理由はあるだろうが……。

そしてこういうものを「ある意味では散漫なショー」だとして、むしろ沿道の人々はその散漫さを楽しんでいるのだと評した著名な演出家を知ってるが、それはそれでいいのだということなのだろう。

それに「くらやみ祭り」のハイライトは今夜の神輿渡御だし、また各町内の山車だから、当然そこには老若男女の参加があり、子供も加わる。

そのことをわかりつつも、肝心要のハイライトはやはり子供ではなく若衆やそれなりの演技手で、技を「魅せて」ほしいもの。「くらやみ祭り」ぐらいの規模の大きな祭りなら「魅せる」仕掛けとして、それぐらいは望みたい。

それで昨夜は早々に切り上げ、自宅で、このような山車が出る祭りはどこも似たり寄ったりのものなのかなと思って、検索しつつユーチューブの映像を見てみたのだ。

例えば青梅の祭り、川越の祭り、秩父の夜祭、熊谷うちわ祭り……。

なんか江戸の彩りを色濃く残している地域ほど、祭りはそれなりのものを「魅せて」くれているようだ。

その中に「世良田祇園祭り」というのが出ていたのだ。
それでいきなり、関東三大祭りの一つとあるから、面食らったのだ。

認識不足だったけれど、さすがに徳川家誕生の地だけあって、それだけの祭りを行っている。演じ手もそれにふさわしい内容を見せている。

で、こうした中で、祭りの総合的な意味で一番の「熱気」を見せたのは浜松祭りだ。

GWのこの時期は各地で大きな祭りが開催される。
浜松祭りもこの時期に行われメディアが取り上げるので知ってはいた。勇壮な凧揚げの競争を。

ところが、この祭りは凧揚げだけではなかった。

併せて山車や屋台が練り出て、さらにラッパによる人々のお練りがある。

そのお練りの熱気たるや凄まじい。

まさに、これぞ祭り!

ラッパはもう「凄烈極まる」の一言に尽きる。

誰もかれもラッパを吹きつつ大変な数の人々が「お練り」ではあるものの、まさに「行進」と呼ぶにふさわしい内容。

まあ見てください、この映像を。

、この映像も

題して「激練り」。

それから今年の各町内の山車の一覧。遠江二俣の方でしょうか、その方の映像です。

というわけで、今日は曇天、雨が降らなければいいが、「くらやみ祭り」のハイライトみこし渡御をしり目に、昨日の山車の巡行についてちょっと触れてみた。

巡行と記したが、これは「お練り」と呼んでもいいようだ。

関西や九州、四国に行くと、祭りと言うより血気ばしった怒涛のような熱気の祭りがあるけれど、南の祭りは措いて、関東と近県の祭りを見比べてみました。京都の「雅」とはことなる、江戸の「粋」を遺した装いに彩られているのが関東と近県の山車の出る祭りのようです。

映像で見てわかるように、浜松のラッパは勇ましさを鼓舞するためで、戦前、戦中の軍事的な世相の影響があり、今に息づいているようです。

浜松の凧揚げは文字通り「勝負」を決する戦いですから、そのあたりに勇ましさを鼓舞するなにものかが必要とされたのかもしれません。







「相馬野馬追」と大物作家二人のつながりとは……



「相馬野馬追」と


大物作家二人のつながりとは……



2011年7月23日(土)


原発事故で開催があやぶまれた「相馬の野馬追(のまおい)」(福島県)が、規模を縮小しながらも震災犠牲者への鎮魂と復興をテーマにかかげて催された、とメディアが伝えている。


例年なら甲冑姿の武者500騎のところがわずか80騎での開催だ。しかしながら、今年は開催そのものが大きな意味を持つ。


さきほど、日経の夕刊を手にしたら、文化欄にその相馬とつながりのある島尾敏雄が載っていた。蒼い珊瑚礁の美しい海の写真と共に。


若いひとはともかく50歳以上の文学好きなら島尾を知っているはずだ。三島由紀夫がノーベル賞の候補として云々されたのは有名だけど、著名な文芸評論家の中には島尾敏雄もノーベル賞にふさわしい、と言っていたた人もいて、それぐらい『死の棘』(シノトゲ)の作者は高い評価を受けていた。


蒼い珊瑚礁というのは、島尾が奄美大島に20年住んだからだが、相馬と島尾が関係があるように、島尾と交流のあった作家の埴谷雄高も相馬とは切っても切れない縁がある。


島尾は両親が小高町(現南相馬市)の出身で、島尾自身も小高町の墓所に入っている。埴谷雄高は本名が般若豊で、代々相馬藩につかえた家臣の家柄だった。相馬武士の末裔であり、埴谷自身、そのことを終生誇りに思っていた。二人は同郷というわけだ。


「野間追」は、相馬市や南相馬市にある三つの神社でそれぞれの地域の三軍がおのおの出陣式を行い、全軍の指揮をとるのが総大将となる藩侯でもある相馬氏だ。今年も確か、その相馬氏の末裔が指揮をとったはず。


島尾と埴谷は一緒に「野馬追」を見物している。だいぶ昔のことだが、埴谷はこの祭りを見て、己の相馬武士としての末裔に大いなる誇りを感じたのではなかったか。


毎年7月になると、都会の駅などのポスターで見かけるのがこの祭りだ。東北の夏祭りの開幕を告げるトップバッターなのだ、この「野馬追」は。「あぁ、今年もそういう季節か」と宮城県南部の町生まれのぼくはその都度思う。


ぼくの田舎は仙台と相馬のちょうど真ん中あたりに位置しており、海岸地区は今回甚大な津波の被害を受けた。

田舎では勤めも学校もほとんどが仙台に出るから、相馬とは方向が逆だが、県はちがってもぼくの田舎町では相馬のひとたちとも交流がある。

それに同じ浜通りだし(宮城県側では浜通りとは言わないが)、背後に阿武隈山地を背負っていることなどもあって気候も天気予報も仙台よりは福島県浜通りに近い。


田舎町は阿武隈川の河口の町でもあるが、この阿武隈川を境にして気候が違うようだ、とぼくは思っている。阿武隈川のすぐ北側は仙台空港だ。


小高町には島尾敏雄と埴谷雄高の文学史料館がある。ぼくは帰省するとき通常は新幹線で仙台まで行き、そこで常磐線に乗り換えて戻るのだが、ともすると東京へ帰ってくるときには常磐線で海側を新幹線の倍以上の時間をかけて戻るときもある。で、小高にある二人の文学資料館を一度は訪ねようと常々思っていたのだが、今回の原発事故で、しばらくはその夢も叶いそうにはない。


ところで日経夕刊の島尾敏雄についての一文の頭に、ぼくの田舎に住む若い陶芸家が今回被災して家を失い、奄美市の募集に応じて乳飲み子を抱えながら家族3人で奄美へ移住したとある。島尾敏雄が住んだ奄美へである。


島尾は魚雷艇の生き残りだ。特攻艇の部隊を率いて奄美の加計呂麻島(カケロマジマ)に赴任したのが奄美とのつながりのはじまり。奄美で20年暮らして島尾は島を離れたが、僕の田舎の若い陶芸家の奄美体験は始まったばかり。


それにしても若いとはいいことだ。最近、沖縄やその周辺の離島暮らしを追い求めての移住がはやっていると聞くが、それでも東北の田舎町から一足飛びに奄美に新天地を見つける発想など、ぼくの年代ではとても思いもつかぬ。30歳そこそこの若者はそれを可能にしてしまう。陶芸家というクリエイターだからか、比較的自由な身のうえだからか。


記事検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
Recent Comments
Archives
Categories
  • ライブドアブログ