原発事故の避難者と、
車中で隣り合わせに
2018年9月9日(日)
昨日、僕は法事で東京〜仙台間を往復した。
帰りの普通電車内でのことだった。
「あなたは、どこなのよ,どこなの?」
70歳前後とおぼしいご婦人の5、6人連れだった。
そのうちの一人が、通路をはさんで座る別の一人に尋ねた。
周囲に聞こえる声だ。
話の様子から、
以前住んでいた町を、出身地を尋ねたのだった。
「○○よ、○○」
町の名の返答があった。
ただし、その町名の響きに僕は、一瞬ハッとしつつ、
小さなショックが覚醒するように頭の中にひろがった。
返ってきた町の名は僕の耳にも馴染んだ、それだった。
メディアを通じて幾度も耳にしている町名だ。
福島の原発事故で避難を余儀なくされた地域の町名である。
すると、このご婦人たちは……。
東北線の福島始発で郡山方面へ向かう上り普通電車の中で、
まだ発車はしていない。
僕はいわゆる〈乗り鉄〉で、
阿武隈急行で福島駅に着いたのだった。
そして、新幹線に乗り変えるつもりでいた。
それがうまい具合に東北線普通列車の乗り継ぎがあったので、
それなら郡山まで行っちゃおうということで、乗ったのだった。
ご婦人連れは、失礼ながら、個人差はあるけれど、
顔のシワや振る舞いなどから70歳前後とおぼしく、
僕とは席が隣り合わせと、向かい合わせになったのだった。
車内はやや混んでいて、遅れて乗り込んだご婦人連れは、
座っている人の一人目が立ち、二人目が立ち、
三人目が立ちというい具合に、席をそれぞれ譲られている。
このご婦人連れは、浜通りの福島第一原発事故の地元の
被災地の町々から、中通りの郡山市に避難している人たちのようだ。
福島市で何かの集いがあり、その帰りらしかった。
ご婦人連れは、話の様子から一部にはかつて職場で一緒だったという、
長い付き合いの人もいるものの、
それ以外の人はそれぞれが付き合いは浅く、
避難先が同じ所か近所なので、
せいぜい避難者同士の知り合いということなのだろう。
ご婦人連れが話しているのはもちろん福島弁で、
それもどうやら浜通りの福島弁のようだ。
福島と宮城の県境近くの田舎町で育った僕は仙台弁だが、
浜通りの福島弁は話せなくとも、会話の内容はほとんど分かる。
その町名がずしんと響いて聴こえたきり、隣同士の話し合いになって、
あとは何を話しているのかはよく分からなかったが、
郡山に着いて、一緒に下車したのだった。
老境に入ってからの震災、つまり原発事故に遭遇し
以来それまでの穏やかな生活がガラリと一変し、
それこそ察するに余りあるが、
数年に及ぶ避難生活の苦痛きわまる日々の
精神的なストレスは如何ばかりのものだろうと……思いつつ、
ホームに降りたご婦人たちの背に、「皆さん、より交流を深めて、
そしていつまでもお元気で」と、つぶやいたのだった。
原発事故による避難している人を目の前にしたのは初めてのこと。
メディアでは何度も見たり、聞いたりしているけれど、
やはり非難している人を直接目の前にすると、
感じるものが全くことなる。ビリビリと胸中に響いてくる。
法事の帰りの我が身である。やはりいつもと何かが違う――。