玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

June 2017

一昼夜で150万回アクセスへ――罵倒豊田議員への注目度(音声映像)の推移一覧!

2017年6月22日(木)


▼21日(水曜)
午後6時56分――313回

午後7時24分――430回

午後7時45分――498回

午後9時15分――1万7863回

午後9時52分――2万275回

午後10時23分――3万7320回

午後11時07分――5万6810回
※下にもっと詳しく。

「このハゲーーっ」と、罵倒し絶叫する、

その映像音声(YouTube=デイリー新潮)を最初に見たのは、

昨日21日の夕方だった。
※ネタ元の週刊新潮は今日22日の発売。

いやー、驚きましたね、このおたけびには。

これがわれわれの選良か、国会議員か、と。

その時点でYouTubeの視聴回数は313回だった。

それでPCに向かってる時間が多いので、
たまたまチェックしてみた。

このような事案(?)の場合、

どのように視聴回数が推移、拡がるのだろうか、と。

僕がこの映像を見たのはかなり早い方だと思えるのだが――。


▼21日(水曜)
午後6時56分――313回

午後7時24分――430回

午後7時45分――498回

午後9時15分――1万7863回

午後9時52分――2万275回

午後10時23分――3万7320回

午後11時07分――5万6810回

▼22日(木曜)
午前0時55分――28万821回

午前1時40分――36万7074回

正午――62万9451回

午後0時50分――63万3012回

午後1時40分――63万4620回

午後2時――67万8699回

▼ついで、豊田議員が所属する派閥はこの件で
 対応を協議したとの報道。

▼次にはこの間(夕刻)に、
 豊田議員から離党届が提出されたとの報道。

午後6時5分――83万6673回

午後6時34分――84万4114回

午後8時25分――96万4084回

午後9時02分――100万9479回

午後10時02分――106万1355回

午後11時34分――121万6383回

▼23日(金曜)
午前1時13分――131万4307回

午前5時28分――150万4052回



という具合。

もう記入はこれくらいにするけど、

ほぼ一昼夜で100万回の視聴数に達し、

23日早朝で150万回に達した。

伸びが鈍化傾向ですが、
もうう少しは増えるでしょう。

時間の推移でこんなふうに拡がるんだという、
注目話題(事案)に対する関心、伝播の度合でした。










「共謀罪」成立!――牙をむく監視社会「ビッグブラザー」があなたを見守っている

2017年6月15日(木)


下記の3つのスローガンが
街中の至るところにかかげてあったら、どうでしょう……。


「戦争は平和である。」

「自由は屈従である。」

「無知は力である。」



このスローガンは

ディストピア小説の名作――ジョージ・オーウェル『1984年』(旧版)に出てきて、街中の到る所で目にとまる。

※ディストピア=反ユートピアの要素をもつ社会


知っての通り、
文字通りの警察国家、密告社会、監視社会を描いた小説です。

この小説の中での国家は、いわゆる「二重思考(ダブルシンク)」という思考法により、相反する言葉や矛盾する概念が上記のスローガンのように当たり前に定着している。

戦争が平和であるはずはないのに、この思考法により人々は考えることを放棄させられ、矛盾を矛盾ではないものとして受け入れる。


小説では上記の三つのスローガンの他に、

自宅に居ても、個人が
何をしているか、何を話したかまでも監視されてしまう。――自宅内に設置されたテレビのような機器で。


70年近く読みつがれてきたこの小説の新訳版が売れている。
トランプ政権が誕生したアメリカで。そして呼応したように日本でも。

購入者は若者が多く、
古典としてより現在の話ととらえて読んでいるらしい。


作品は、
全知全能な「ビッグブラザー」の管理支配下の世界と人間を描いてます。



「そこでは反社会的な思考はもとより、
自由な恋愛も、個人の日記すらもが犯罪である。」


「なぜなら、支配に不都合な存在や事実はあらゆる記録から
抹消され書き換えられて〈なかったことになる〉からだ。」


「そんな社会では、矛盾する二つの事柄を同時に信じるための
〈二重思考〉が強いられる。


「2+2は4だが、党が5だと言えばそう思える」
――そういう荒唐無稽な状況を生きる主人公の姿が描かれる。



※上記の太字カギカッコは、朝日新聞4月の書評欄からの部分引用。
 市川真人(批評家)による新訳版の批評より。



現実のディストピア化として、
「共謀罪」法案が成立した。

知っての通りいい加減な議論ともいえない議論で
277に及ぶ対象犯罪が規定され、

あらんことか、
政治家や官僚の犯罪がそこから除外されている。


実に手前勝手で独善かつ一方的。

これでは国家と個人の均衡がたもたれない。
民主主義は今や息絶え絶えにある。


ただし一縷の望みとして、
その民主主義は数の力だから、

政権交代すれば「共謀罪廃止」ってことも
可能かもしれないが、現実は厳しい。

その厳しさを助長するのが、ニューズウィークのこの記事で、
「政治活動にほとんど参加しない日本の若者」

ビッグブラザーに長い間見守られるのは
彼らの世代なのに……。


作家の多和田葉子(ドイツ在住)が言っている。

「今ドイツ社会が揺らいでいるのは、難民を受け入れたからでもテロ事件が起こったからでもない。

保守も革新も同意していた
歴史の輪郭が次の世代に伝わりにくくなってきたから



たしかにそうだ。
そして時代の推移、世代の移り変わりと言えばそれまでだけど、

そう言えるのは
時間と空間が人間の営みと歩調を合わせていた時代のことで、

今の時代では漠たる物言いでしかなく、過去の話。

ネットメディアに代表される情報化の進展は著しく、

今は既に空間ばかりか、時間までもが消滅していく流れにある


まさか「ビッグブラザー」に管理支配されるような社会が、
こうもいきなり幕を開けるとは……。






武蔵野市――〈オレオレ詐欺〉の被害データが公開された!

2017年6月10日(土)

今朝の新聞に武蔵野警察署のチラシが入っていた。

そのチラシは、

2017年1月〜4月末日までの武蔵野市内における

いわゆる振り込みサギ(特殊サギ)等の被害について触れつつ、

注意をうながしていた。(市域は約7万6千世帯、人口約14万5千人)


被害件数は4か月で

11件――総被害額8,700万円以上



とのこと。


手口別では
オレオレ詐欺が

6件――8,200万円。



市職員を語りATMに誘導する
還付金サギが

1件――500万円弱。



また、振り込みサギの電話が掛かってきたとして
武蔵野警察署が通報を受けた件数は

総数で164件(同じく4月末まで)。


ついでに2015年と16年で紹介すると、

通報の総数は
2015年――291件あり、

そのうち被害は

22件――被害総額4,900万円。


2016年――421件あり、

そのうち被害は

20件――被害総額は1億7千万円。


町名ごとの被害件数にも触れている。

町内世帯数の多い少ないが関連しているのかどうかはともかく、
3年を通じて見てみると、詐欺の電話が総じて多いのは

吉祥寺の北町、南町、東町
吉祥寺本町、境南町、中町
などだ。

(※各町内はさらに一丁目、二丁目と細分化し、
  各町内とも世帯数はほぼ7000世帯台


それから金融機関などが未然に気付いて
被害が防止された件にも触れておこう。

15年――件数は21件あり、1億3、740万円が被害からまぬがれた。

16年――件数は20件で6440万円が被害からまぬがれた。


僕のところにも以前電話が掛かってきたことがあるけど、

それは難なく封じた。ほとんど使わないが、もちろん固定電話の方にだ。

町内の集会などでたまにオレオレ詐欺の話が出ることもあるが、

こうして市内各地での被害を思うと、

身近なお隣さんで現実に被害が出ているのだなと、

多少なりともハッとした。

「私は大丈夫」「自分に関係ない」は過信です、と警察署……。








活発な若い世代から、違和感を突きつけられる!

2017年6月7日(水)

知人がある団体を立ち上げた。

若者たち(学生も含む)が保有する得意とする能力や技能を活かすべく、彼ら自身が主体となって企画を立て、組織の内外問わずに連携して活動するという団体だ。

将来的には企業や地域と交わりつつビジネス展開に、あるいは地域に貢献するなどを目指すと謳ってある。

立ち上げの過程であれこれと意見を求められ、また文章表現も含めた対外的なメッセージのアドバイスなどで間接的に立ち上げにかかわった。

知人にとって若者らは彼から見たら子供世代で勝手が分かるようだが、子供のいない僕には、日常的にはほとんど縁のない世代といえる。

だいぶ昔のことになる。会社員だった当時、同僚が勉強会(東京)を立ち上げたことがある。

その会はメンバーが次第に増えて大きくなり、一時は400名以上の参加をみることに。当時、東京では一番大きな勉強会組織となった。メンバー限定をしていたわけではないけれど、集まった連中は有名企業の社員が多く、積極的な活動をしていた。

そのメンバーの一部は今でもネットワークとしてつながりを保っていて、時を経て各人が成長し、中には著名な評論家として活躍していたり、企業内でも相応の立場を占めていたりする者も少なくない。

核となって動いていたその時の同僚はその後、ビジネス界では誰もが知る人物から資金援助を受けて当時としては珍しい事業を立ち上げ、メディアでかなりとりあげられ、今ではその事業分野の先達として知られている。

その同僚たちの連携の経緯を見てきて思うのは、彼らが今の盛んな起業や独立心旺盛な事業意欲を時代的に先取りしていたということだ。

友人が立ち上げた若者たちの活動団体に関わって、そんな昔のことを思い出していた。

世はまさに〈起業時代〉といえる。社会人はもとより学生たちでさえ、仲間を集めて起業につなげたいとか、学生時代に独自のビジネス展開をもくろむなどは珍しくもない。僕の世代にしたら、まさに隔世の感ともいえる。

この団体をつうじて若い彼らと交わる機会もありそうなので、今の若者が何を考え、何を目指し、どう動くのか……、また僕らとの世代間ギャップゆえに彼らが放つであろう大いなる違和感や戸惑いにぶつかるのもそれはそれで悪くないし、むしろそうしたプラス、マイナス両面で想像を超えた色んなことが待っているかもしれないので、そうした刺激は大いに歓迎したい。

若々しい、無垢な、純粋な活気との出会いに感謝!










十倍愉しめる時代小説・時代劇――武蔵、小次郎等の新たなイメージが

2017年6月5日(月

 ※以下は2008年2月の再掲――最近、アクセスがあるのでタイトルを変えて再掲。

■時代小説の最大のヒーローは剣豪である。吉川英治の「宮本武蔵」しかり、柴田錬三郎の「眠狂四郎」しかり、池波正太郎の「剣客商売」しかり、そしてまた、柳生十兵衛をはじめとした柳生一族しかり、それから最近NHKで放送している鞍馬天狗もそうだし、見方によってはこのブログで前回、前々回にも触れた司馬遼太郎の、「燃えよ剣」の土方歳三などを挙げても誤りではないだろう。とまれ、身近なヒーローをいくらでも挙げることができる。


■こうしたヒーローが活躍する時代小説の船に乗れば、それはそれで時代を隔てた未知の世界への時間旅行を十分愉しむことができるのだけれど、小川和佑という文芸評論家の『時代小説巡遊記』を読んでいて、時代小説のあらたな愉しみ方、倍加する愉しみ方に触れた思いがした。


■この『時代小説巡遊記』は剣豪とは切っても切れない刀剣、そう刀について、上述したような時代小説のヒーローたちと刀との関係について、つまり刀をキーワードにして小説を読むことで気づくさまざまな興味深い点について述べている。


「日本刀」という呼称は現代の日本人にとっては美術・芸術工芸品としての独特のイメージを彷彿させるが、その呼び方そのものは決して古いものではなく徳川十一代将軍家斉(いえなり)の頃で、文政11年(1828年)に頼山陽が詩集のなかで、詩語として使った「日本刀」が爆発的に流行したからだという。ただし語源そのものはもっと時代はさかのぼり、11世紀の頃の中国の詩人の「日本刀歌」にあったとのこと。


■そして宮本武蔵なら相州鍛冶正宗の古刀、対する巌竜佐々木小次郎は備前長船の長太刀になるわけだが、そうした刀と刀鍛冶について述べているのはまだほんの小手調べで、剣豪と刀の関係(すなわち武士と刀の関係でもある)が示すところのその精神的な意味あいについて述べ、刀身に用いる鋼の層の構造による刀の出来具合と名刀や粗末な刀の真贋、それに刀の長さやその種類など、本格的な刀の知識を元に剣豪と刀についての関係性を面白く読み解いているのだ。ユニークな視点であり、その説得力に感心した。


■でも考えてみれば、これも当然かもしれない。刀が「武士の魂」とまでいわれた以上、刀が武士に与えた精神的な影響はわれわれ現代人には想像も及ばないほど深いものであろうし、逆に言えば、武士の刀に対する思いは、まさにその武士の存在そのものに匹敵するほどのもので、(刀自体が)武士を体現していたものと思える。


■で、読者にわかるように参考までに記しているのだろうが、これらの剣豪がつかっていた刀鍛冶の手になる刀が現代に残っているモノだと、それらは実際に数百万、数千万円もする高価なものらしい。やはりワザ物が多いのだ。

■いずれにしろこの本は刀というユニークな視点を通して時代小説を見ることで「作家の個性やこのみ、その素養までもが浮きあがって見えて」きて、従来にない新たな時代小説のより深い次元での読み方を提示してくれた。司馬遼太郎が歴史的な知識は相当なものだというのは分かるけど、刀剣についての知識も作家としてはトップクラスでかなりのものだったとのことだ。


時代小説のなかで作中の武士が帯刀する刀についての描写や説明が入るようになったのは1970年以後のことだという。これはいわゆる中間小説の出現とも関係するが、武士と刀、剣豪と刀を組み合わせてみることで、より深い次元での武士の造形、すなわち剣豪の造形が可能になったものとおもわれる。刀をとおして武士を、剣豪を語る意味、すなわち時代小説を語る意味はもっとひろく理解されていいものだと思う。







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