玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

January 2016

仙台真田家と伊達家のつながりとは?!


仙台真田家と

伊達家のつながりとは?!




2016年1月29日(金)

知らなかった――大坂夏の陣で落城、討死する真田幸村が、
その子女(一男三女)を激戦の相手こと


敵対する伊達正宗の家臣・片倉小十郎(宮城・白石城城主)に託し、
三女は小十郎の後妻にまで迎えられていたとは。


白石城
片倉氏の居城・白石城


それにタイトルにも示したが、


幸村の血脈を維持し現代にまで至る
「仙台真田家=現在14代」が存在していたとは。



僕の故郷の史実のことながら、今日まで知らなかった。


片倉小十郎といえば、正宗の右腕であり明敏な知将として知られ、
秀吉や家康からも召し抱えが懇望されるなどで知られているが、


幸村から子女を託されたのはその初代ではなく二代目の小十郎。


この二代目もやはりすぐれた武将で、
大阪夏の陣では伊達家の先陣をたまわり、


敵ながら「智勇兼備」の将と認めたのが幸村。


そういうことで子女を託したのだった――敵対する相手に


託すに至ったその経緯については
史実でもはっきりしないようだが。


この話題を提供していたのが
今日の朝日新聞夕刊の「各駅停話」という各地の駅にちなんだ話題のコラム。


ただしこのコラム、<二代目>と表記してないので、
ぼくはてっきり初代のことだと思って読んでいた。


もっともコラムには「鬼小十郎」とあり、これが二代目の異名と知ったのは、
宮城白石の地元で催される「鬼小十郎祭り」の知識を仕入れてのこと。


大阪夏の陣での大活躍ぶりから「鬼小十郎」の異名をほしいままにしたようだ。


託された小十郎はもちろん正宗にそのことを伝えて、
正宗の了承を得たうえ、子女の身分を隠して白石城に連れて帰る。


片倉氏の侍女ということにして。


小十郎の家臣すらその事実を知らなかったとのことで、
後になって幸村の家臣が白石城を訪ねてきて知られることに。


小十郎の後妻におさまるのは三女・阿梅(おうめ)で、
託されたときの彼女は12歳で、後妻におさまるのが17歳の時。


前妻が病弱で、この娘を後妻にと遺言にあったとのこと。


さて、仙台真田家だが、こちらは託された一男三女(ネット上には5人との記載も)
のなかの男児で、その名は真田大八(幸村の二男で幼名)。


大八もやはり片倉姓の片倉守信を名乗り、
のちに真田性に復して真田守信に。


幕府の調べにたいして伊達家と片倉家は「偽りの大八は他界した」とか、
偽の家系図をつくって難を逃れることになる。





九州の雪で飛行機が飛ばず、ごった返す乗客の中、空港で立ち往生

2016年1月25日(月)

今回の記録的大寒波で、鹿児島の桜島がすそ野まで真っ白になっている写真を見たが、こんな写真は初めてお目にかかる。九州ではなく、まるで北海道のような雪景色である。

桜島雪のフォト
桜島

その雪のため、昨日福岡から東京に戻る予定だった知人は飛行機が飛ばなくて足止めに合い、今日になってやっとこさ、それも夜になって戻ったと、先ほど話したばかり。

なんでも博多で医師会総会があり、それにジャニーズの公演もあって、お医者さんと公演に参加した観客などが押し寄せて福岡空港は大変な人の数が東京便を待つことになり、往生したとのこと。

僕は仕事で国内は43ぐらいの都道府県に行ったり来たりで足を踏み入れているけど、最近はあまり遠出をしなくなったので、それはそれでうらやましいやら、往生するようなしんどい目に合わなくてよかったやらと……半分徹夜状態の今日、暖かい室内でPCに向かっている。









カマキン(鎌倉)の閉館! 残念至極、行けそうにもない

2016年1月23日(土)

カマキンこと「神奈川県立近代美術館 鎌倉」が今月末で65年の幕を閉じる。誕生したのはまだ占領下の1951年11月。鶴岡八幡宮の境内を借りて建てられた鉄骨構造の二階建てで、戦後初の美術館といえる。カマキンの呼称は開館当時からそう呼ばれていた。

カマキン
神奈川県立近代美術館 鎌倉

鎌倉には甥夫婦が住んでいる。海外からもどり、鎌倉に住みたいといって美術館がある鶴岡八幡宮の近くで暮らしている。

横浜なら仕事でもよく行くけれど、鎌倉となると一日掛かりになるのでなかなか時間がつくれない。北鎌倉も含め(葉祥明美術館も訪ねてみたい)、あそこにも、ここにも行きたいということで一日掛かりとなるのは必定。そういうことでなかなか時間がつくれない。それに行くなら平日にしたい。これは勤め人でない者の特権だが、そう都合よく時間があかない。

カマキンが閉館するとは甥から聞いていたので、それまでに行きたいと伝えていた。以前訪ねたときは建物外観を眺めただけ。しかし、今月末の閉館となると、仕事の具合から推して、鎌倉まで足を運んで一日をつぶすだけの時間的余裕はまずない。それにこの閉館で、名残を惜しんで連日2500名が押しかけているという。館内は人であふれているはずで、それもあってかえって敬遠の気持もある。

ところでカマキンの建物はル・コルビジェの日本人のお弟子さん(故板倉準三)が設計したとのこと。

コルビジェというと、世界遺産登録を目指す、上野の国立西洋美術館の設計者として知られているけど、カマキンとこの西洋美術館が酷似していると、先週の東京新聞で知った。


それもそのはずで、実際に西洋美術館の図面を引いたのは板倉ら日本人の弟子だったとある(コルビジェには日本人弟子が3人いる)。

「建物は<無限発展の美術館>という発想を基にした四角い中庭を取り巻くような構成」で出来ており、「<ピロティ>と呼ばれる列柱群が二階部分を支える形式」は「師コルビジェの哲学の踏襲」だと新聞は伝えている。

その一方で「桂離宮などの日本の伝統建築の良さも採り入れて」おり、建物前の水面の「波のゆらめきが天井や壁に反映し、光と影が構造物と織りなす美」を成しているとも。
(鍵カッコ内は引用)

いつ頃だったか忘れたが、依然東京で開催された「コルビジェ展」を見ている(何度か開かれた)。近代建築の巨匠だけど、その初期の絵を見ると、(キュビズムの影響を受けているので)何の説明もなければ、その作品はピカソではと思えるような抽象画の数々が展示されていたし、ほかに彫刻・版画・タピスリーなどもあって、大建築家ではあれど、それ以上に芸術家コルビジェを認識した次第。




芸能界スマップの大乱で、一流コラムニスト「オダジマン節」炸裂!

2016年1月19日(火曜)

個人的にはほとんど今回のスマップの解散騒動については興味がないのだけれど、コラムニストのオダジマンこと小田嶋隆が、まさに彼一流の見立てで、今回の騒動について歯に衣を着せることなく、オダジマンなフレーズを炸裂させている。

一流どころのコラムニストの<切れ味>の確認には<格好のつぶやき>と思われるので一部を貼り付けてみた(下記の太字)。氏のツイッターから。ツイッター上ではかなり出回っているようだ。

「芸能事務所のガバナンスが芸者置屋そのものであることはずっと前からある程度わかってはいた。でも、テレビ局がその北朝鮮ライクな芸能事務所のパシリだとまでは、正直思っていなかったので、今朝のワイドショーの作り方には驚いている。」

「吉原でさえ10年つとめれば年季が明けるというのに25年たっても足抜け女郎扱いですかそうですか」

「ガバナンス、コンプライアンス、アカウンタビリティーといった用語が、横文字のまま普及しているのは、既存の日本語(つまりわれら日本人の意識)の中にそ れらに相当する言葉がなかったからで、つまり、わたくしども日本人の組織への帰属意識は、いまだに「御恩奉公」の時代から変わっていないのだね」

「国民的なアイドルが集団的な土下座を強いられるみたいなパフォーマンスを事前告知付きの緊急生放送で流して、翌朝にはその全面屈服劇を美談に仕立てあげるVTRを配信しまくっているフジテレビは、たぶん、日本中のサラリーマンを敵にまわすことになったんではなかろうか。」

「<干す>という制裁は、ひとつの芸能事務所の力だけでは貫徹できない。特定の誰かを<干す>」ためには、日本中のすべての芸能プロダクションとテレビ局が総掛かりで破門状を共有せねばならない。その<破門状の共有>ができているということはつまり、芸能界が闇社会であることを意味している。」









どうしてなのか最近、新しい仕事が舞い込む――業界人とも動き出す

2016年1月17日(日

去年の秋ごろから、僕とはまったく縁のない音楽世界の住人と仕事をすることになった。

この住人こと、彼は才人である。誰もが知ってる超有名なタレントのレコード(CD等)音楽を手掛けたり、あるときは国内各地で音楽イベントを手かげたり、またある時は作詞も手掛けるという、才能を自在に繰り出す手合だ。

広告や編集の世界なら僕が身を置いてきた世界だから、その仕事内容も含めて相手を把握できるが、音楽業界の人で親密な知り合いとなるとまずいないので、どのような仕事をしているのかや、どんな人なのかが、まるで分らなかった。(それなりに、仕事で大きな音楽事務所のトップとか、著名な音楽批評家とかを取材したことはあるけれど、それは一過性のものでしかなく、相手の業界を知りえたわけではない)

知り合って驚いた。とっても腰が低く、実に生真面目。むしろ、この人が芸能界や音楽業界の人なのかと思わず疑ってしまうような(僕が勝手に抱いていた、業界人のある種のイメージなのだが)、礼節はもとより、何よりも生真面目な人なのだ。(これだけの生真面目さなら、人はこの人を疑うようなことはまずありえないのかもと思ってしまうような人物だ)。

実を言うと、僕の兄はレコード会社に勤めていたので、僕の若いころは、生のレコーデインング風景を見学したり(クリエイテイブに関するすごい感動を受けた)、間接的にはであれども、業界の小さな事情などはそれなりに伝わってきたが、その後はほとんど僕には関係のない業界ということで……、あぁ、あの歌い手は兄の会社の人で、レコードがヒットして売れているという程度のもので、普通の人と同じレベルでしかなかった。

それが今になって彼と一緒に仕事をするようになって驚いている。どこで、どう何が、つながるかわからないものだ。新たな、いや、むしろ古いつながりを活用してと言ったほうが正しいのだが、その関係で新たな仕事に挑んでいる日々である。






息子の課題レポートを肩代わり――その評価は如何に

2016年1月16日(土)

知り合いに、大学生の息子の課題論文(自由テーマ)を代わりに執筆し、彼の息子の成績はA評価を受けたとのこと。

その知り合いが言うには、息子の試験そのものは及第点ではあるけれど決してA評価を受けるような点数ではなかったと息子自身が言っており、息子も、つまりは小論文が評価されたのだろう、とのこと。

講義


息子の通う大学のその学部は、その分野では国内でもトップクラスに位置付けられており、そこで、評価された小論文ということで知り合いもご満悦の体。

僕にはまったくあずかり知らない分野だが、参考までに読んでみたいというと、読ませてくれた。

これが難しい。専門用語が並んでいて、どう判断したらいいのか、まるで分らない。僕は仕事柄、いろんなジャンルの論文も読むが、その知り合いが書いたそのジャンルの論文はまるでわからない。

前期試験で親は味をしめ、半ばたのしんで、またまた後期試験のこの時期に取り組んでいるようだ。息子は息子で評価が高まるのだから、すっかり親頼み――なんだろうな、おそらく、○○君よ。でも、二人で相談しながら原稿をチェックしているのだろうけど。

面白いもんだ。
小学生の問題を親が見てやるのと違って、かなり高度なレベルを要求されるので、親が気軽に肩代わりできるものではない。いや、ほとんどできないだろう。この数日、知り合いは仕事そっちのけで、小論文執筆で、まじで専門書を繰りながら原稿を仕上げているようだ。



今日の、武蔵野市の店頭での灯油価格は、18リッターで1000円を割っていた。

2016年1月15日(金

ものは試しで、近所のガソリンスタンドに出向いて灯油を10リッター買ってきた。

驚いた。18リッターで価格が1000円を割り込んでいた。赤いポリタンクいっぱいで1000円しないのだ。

店頭でのリッター当たりの販売単価はわずか55円(税込)。

ちなみにガソリンは「105円/リッター」だった。

連日のように原油価格の異常な値下がりが伝えられ、ここ一年で半分ぐらいに下がっており、結果、ガソリンも灯油も驚くほど安くなっている。そのことは知っていた。

ところが、巡回でやってくるタンクローリーの価格はほとんど変わらない。1380円とか1480円とか、である。

数日前、近所の人が、自転車で近所のガソリン・スタンドから灯油を買ってきたところに出くわした。

18リットルのタンクだが、自転車だから重いので10リッターだけ買ってきたという。
そこで、驚くほど安いと言っていた。スタンドは近くだから、特段の手間ではない。

それで、ものは試しで出向いてみたのだった。
何気ない生活感覚からでた市場調査である。

そしたら、18リッターの価格が表示されていて、1000円を割っていたのだった。

地域によって価格に多少の違いはあるだろうが、まだ下がるのだろうか。

今朝のラジオで元外交官の作家・佐藤優が言っていた。

原油価格の値下がりには、国際政治的には、<いい値下がり>と<悪い値下がり>があり、今回の値下がりは<悪い値下がり>であり、しかも<うんと悪い値下がり>だと。

その背景にサウジとイランの対立があるとのことで、戦争を伴う可能性があると、と。戦端がひらかれれば、いきなり油がはいってこなくなる。一気に10倍の高騰もありうるとのこと。

今週から急に平年並みの寒さになった東京は、暖房の本番時を迎えた。安い暖房費は望ましいが、国際政治のかけひきによる、異常な安値は、一気に異常な高値となって跳ね返るのだろうか……。






冬陽に染まる、学芸大学(小金井市)のキャンパスを走る抜ける

2016年1月13日(水)

異様に暖かい正月も過ぎ去って、成人式翌日の昨日から東京にも本格的な寒波が襲来、今朝は都心でこの冬初の氷が張ったとのこと。

寒くて自転車を転がすのはシンドイかと思ったが、午後になるとさすがに朝のような冷え込みはなく、それほどの防寒姿でなくとも走れるので、気分転換にと午後3時頃、上水に沿って西に走り、小平や小金井方面を動き廻る。

上水沿いの、すっかり葉を落とした低い木立の連なり。その木立の頭の部分の、無数の小枝越しに透かし見える空の情景がたまらなく美しい。まさにこの季節ならでは風情であり、情趣であり、情味といえる。

学芸大
学芸大学構内
学芸大学2


たまにだが、上水沿いを走ると、近隣の学内の立ち入り自由の大学構内に立ち入り、あてもなく走り回る。これも楽しみ。

午後の時間だと各運動部の活動が活発で、若い学生諸君の息吹をじかに感じることができる。

今日は小金井にある冬日和の学芸大学の構内を走り抜けた。






大手流通が、その権利を「そっくり買いたい!」と言った商品に取り組むことに……

2016年1月12日(火)

2016年はおもしろい動きができそうな気がしている。

仕事始めの先週、都心でのある一日のことだが、午後の時間に立て続けに三組の人たちと会った。二組は始めての人たちで、間に知人が入って、僕を引き合わせてくれた。最後の組は飲み会まで流れた――。

僕とその人達をつなげたら、何かが動きだすのではないのか、という知人の腹づもりで会うことになったのだった。

ひと組の人が開発したある商品の説明を受けて、これは大当たりすると僕は直感した。
その時は話だけだが、相手はすぐにサンプル見本を送ってくれた。僕が「これは当たる!」と絶賛したからだ。

サンプルを見て、僕はますますこの商品は売れると惚れ込んでしまった。
そこで思った。どうやってこの商品を世間に知らしめ、広めるのか等を。

メディア向けのプレスリリースは当然だが、その前に、その商品のことをもっと知りたかったので、「すぐにもう一度会いましょう。会って、もっと詳しく細部について聞きたい」と連絡を取り、さっそく今日三時間ほどに及ぶ細かな説明を受けた。というか、半ば取材のようなスタイルで聞き出したのだ。

そしたらいろいろと面白いことが分かった。

その商品にはすでに確固たる固定ファンというか、利用者がいて、「これは良い!」と惚れ込んでくれている人たちが各地にそこそこいて、それなりの実績をあげているのだ。ただし、爆発的なヒットはもとより、まだヒットとすら言えない。おそらくある閾値(しきいち)を越えると一気に爆発的に売れ出すことだろう。

商品名やどのような商品なのかについてはここでは触れないが、相手の話によれば、ある大手流通企業の幹部から、「そっくりその権利を譲ってくれないかと請われて、うん千万円の買い取り額を提示された」という。

さすがに迷ったと、その商品を開発した相手が言った。
その商品の製造企業も出資しているので、相談の結果、権利を売り渡すことは差しひかえたとのこと。

開発者はクリエイターであり、その商品は彼の本業とはほとんど関係がない。

くだんの流通幹部は、一気に全国の店舗で販売して、相応の販売の数字をはじき、この商品で儲ける、しかも社会的に企業としても貢献できる商品だと判断したようだ。

それは正しく、まさしく、時代にかなった商品と言える。

今年の前半は、本業のかたわら、この商品の全国制覇を狙って、あれこれと仕掛けてみたい。

年初来、6日連続して日経平均が続落しているが、こちらは新年早々、おもしろい商品に巡りあったものだ。






新説――「幕末」って、いつ(何年何月に)始まったのか? それに「幕初」「幕中」ってあるのだろうか



新説――「幕末」って、

いつ(何年何月に)始まったのか? 

それに「幕初」「幕中」ってあるのだろうか



2016年1月9日(土曜)


江戸時代(江戸幕府)を便宜上、
初期・中期・末期というように三期に区分するとする。


ある時代を研究する場合、
この三期に区分する手法は結構取り入れられているが、


別の言い方をするなら
草創期・安定期・衰退期とも言える。


そして江戸幕府の衰退期に対する概念としての呼称が
いわゆる「幕末」
ということになる。


同様に初期・中期、すなわち草創期・安定期に照らせば、
それぞれ「幕初」・「幕中」となる。


そう、江戸幕府は幕初・幕中・幕末の三期に
区分されることになる



ただし幕末の呼称は我々の耳に馴染んでいても、


幕初・幕中となると、
歴史や時代小説はもとより、歴史書を手にしても、


まずお目にかかることはなく
使用されていないといえる。


幕末

そういう面白い疑問を投げかけつつ、



「幕末はいつ始まったのか」という問いに自分流の根拠を提示し、



常識的には「ペリーが浦賀に来航した時点がその始まり」だ
とされている説に、



「私はそうは考えない」と異をとなえたのが、




直木賞作家の中村彰彦
だ。


ちなみに、ペリーの浦賀来航の時点とは
嘉永六年(1853年) 六月三日のこと。




ここまでの、そして以下の記述についての内容は、
今日9日の東京新聞で中村が語っていたものだ。


面白いので取りあげたのだが、ここでは要点のみを示したい。


では、幕末の始まりはいつからなのか?


中村はまず時代の推移を踏まえたいとして、
以下の点に触れる。


お馴染みだが、幕府を支援する佐幕派諸藩と、
やがて討幕派に成長してゆく薩摩・長州藩の対立が軸にあり、


そこに攘夷を唱える孝明天皇がいる一方で、
開港を迫る欧米列強の思惑への目配りをわすれてはいけないとし、


つまりはやっかいな時代だと指摘する。




その上で「幕末の始まりはいつからなの?」と、問う。




中村は根拠を示しつつ、




幕末の始まりはペリー来航の12年前、
すなわち十二代将軍徳川家慶(いえよし)が治めていた
天保十二年(1841年)七月としている。






このとき、
まさに幕府の衰退を示す事態が起きている。


この七月、幕府は諸藩の反対により、


一度出した幕府の命令を撤回するという幕府始まって以来の事態に
追いこまれている



幕命の撤回とは、前年の天保十一年十一月に三つの藩へ下した「三方領地替え」の発令の撤回のことだ


武州川越藩、庄内藩、長岡藩の三つの藩の間でそれぞれ国替えが発令されたのだが、藩によっては損得が生じる。


詳しくは触れないが、得をするのが川越藩で、損をするのが庄内藩となる。で、怒った庄内藩の領民である農民達が五万人、十万人と集まって、むしろ旗を立てて転封阻止の行動に立ち上がったのだ。


百姓とむしろ旗と言えば一揆にみられるように、反旗を翻すものと知られているが、おらが殿様を支援する行動に出たということからも、例外もあったのだと知ることにもなる。


で、こうした世論におされて幕府は幕命を撤回するのやむなきに至る。天保十二年七月十二日のことだ。
このことはつまり、「幕府に対する有力諸藩の発言力が増進した」ということをこれ以上なく示したことになる。



慶長八年(1603年)の江戸開府から239年目のことで、徳川幕府の衰微がついに現実のものとなったのだった。


それにこの2年後の天保十四年六月のことだ。老中首座として天保の改革を推進した水野忠邦は、江戸と大坂の周囲十里以内の大名や旗本の領地を取りあげようとして「上地(げち)令」を発したものの、大反対にあい、やはり撤回のやむなきに至る。


で、幕末とはまさに、この二つの事例に端を発するとして、天保十二年から十四年にかけての幕府の弱体化に始まるとしている。


そう考えた方がいいのではと、中村彰彦。







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