玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

August 2015

なぜ、民意が行動するのか、しなければならないのか――米国人パックンの、「安保法政」ニューズウィークの論考を読み直す!

2015年8月31日(月)

ニューズウィーク電子版(7月31日)に載った、パックンこと米国人パトリック・ハーランの論考「安保法案については、アメリカ人だから語りません」を読み直してみた。

読んでみると、(海外と比較しているので)日本における司法や立法制度の独特な(つまりおかしな、変な)特徴というか――そういうことが分かり、

(市民レベルとしては)ほぼ過不足なく「安保法政が何であり」、「何がおかしく」、「それはどうしてか」が分かり、
どうして日本でいま、反対の動きなのか、また動かなければならないのかの背景がよくわかる。

パックンはまず、「民主主義下で政府の権力乱用を防ぐ“抑止力”」は二つあり、
それは「憲法」と「民意」
だとする。

簡単にまず憲法のみの紹介。

安保法案が違憲であれば破棄されるはずで、それが憲法の抑止力だとする。
しかし日本では他国と異なり、憲法そのものに基づく裁判以前に違憲立法審査を行う最高裁判所のシステムがあるとする。

つまり、憲法判断以前に、「特定の事案がないと違憲かどうかの判断が下せない」システムになっているのだ。

パックンはここが独特な制度としておかしいと指摘し、言い換えれば、憲法はブレーキとしてほとんど機能していないとの論を展開する。

詳しくは下記で。

安保法案については、アメリカ人だから語りません



ついでにこちらも。対で読むともっとよく分かる。
この論考で、安保法政の“何故”がスッキリ

脚本家・大御所二人「倉本聰VS.山田太一」名作ドラマは裏番組対決だった!


脚本家・大御所二人「倉本聰VS.山田太一」

名作ドラマは裏番組対決だった!



2015年8月28日(金)

北の国から



8月の日経「私の履歴書」は脚本家の倉本聰。

前回に引きつづいて今回もとりあげる。

今回はライバル編。


■若者気質の変化で閉塾

話の前に、

倉本聰が富良野に

後進育成の「富良野塾」を
開塾したのはよく知られている。

(塾は1984年4月に開塾し、
2010年4月に閉塾)

開塾したのは次のような理由からだ。

映画界には(俳優や脚本家の)後進育成のシステムがあるけれど、
テレビ界にはない。


それなら自分が育てよう。
そう決意したのだった。


塾生は肉体労働の自活をしながら学ぶ。


全卒業生は約380人に及び、
その三分の一がライターや役者をしている。


そして今日28日の「履歴書」で次のように倉本は語っている。


四半世紀に及ぶ塾だったが、
閉塾の最大の理由は若者たちの“気質の変化”にあると


「若者の気質が変わり、

学ぼうという気概が薄れてきて講義で質問が出なくなった。
疑問が消えたのだ」


「ついに僕のドラマを見たことも
僕の本を読んだこともない若者までやって来た」



倉本本人の年齢もあろうが、
これでは教える方も気力が萎える。


時代が変わった、人間(若者)が変わったのだ。


葬式で「ハシャグ」という発想

ところでここで一つ――今日付けの「履歴書」でも
触れているが、

新聞より少し詳しく――倉本流創作の極意の一つを紹介。


クリエイティブの精神についてだ。
誰でも分かるが、簡単そうで難しい。


知識と金で前例に従ってつくるのがMAKEの「作る」。

金がなくても知恵で、
ゼロから前例にないものをつくるのがCREATIVEの「創る」。


これ、手元の資料によると、
倉本は第一回目の塾生への最初の講義で教えている。


次のような具体例をあげながら。

葬式のシーンで登場人物が泣くという発想は「作る」。

で、葬式で“ハシャグ”と考えるのが「創る」なんだ、と。


これ、難しいのはその先にある。

発想や、何らかのインスパイアにより
「創る」のアイデアが浮かんでも、

次には、表現としてそれをどう説得力あるものとして
脚本に定着させるのか、

おいそれとは葬式で
“ハシャグ”などを表現できるものではない。

その定着を可能にする力量も含めての
「創る」ということだろう。


もっとも、浮かんだアイデアを定着させる
業や技能を持つのがプロだから、

そこは素人の心配することではないのかもしれない。

それこそがオリジナリティの
領域であり独創性といえるもので、

プロがプロとしての本領を発揮する
場面ではある。――もっともそこにこそ、

力量の差がおのずと出てしまうが。


前回挙げた「ドラマチック」を二分割した
「ドラマ」と「チック」の「チック」も同様。

頭で分かっても、

それを業や技能として使いこなすには
相当の修練がいるし、

そこには才能や運も要求されるのでは。


■倉本聰・山田太一の名作ドラマ対決!

さて、多くの感動を与え、国民的なドラマとまで
言われて賞賛された「北の国」からが、

フジテレビで放映されたのは
1981年10月9日〜1982年3月26日までの24回。

秋から年末年始をまたいで桜が咲く季節までだった。


最初の視聴率ははかばかしいものではなかった。

日経「私の履歴書」で倉本が語る。

このドラマの最初の放映からの二か月間は
視聴率が伸びず10%台の中間をうろうろしていたと。


その一方で
「視聴率は伸び悩んでいるのに反響はすごかった」とも。

自宅にまで電話や手紙が届き、
その中には開高健からの手紙があったり、

新幹線でたまたま出会った大江健三郎からも「いいですね」と
声を掛けられたりして、

「あのような人たちの心も揺さぶっているのかと思った」とも。



僕自身はこのドラマをリアルタイムで
最初の放映から欠かさず見ていたけれど(そのはず)、

視聴率が伸びなかったことを今回「履歴書」で知った。


強力な裏番組のせいだった。


山田太一脚本のTBSドラマ「想い出づくり」がそれで、

若者をターゲットにして「北の国から」放映の
3週間前から一足早く放映され、

人気を集めていたのだ。


そして、「想い出づくり」が12月で放映が終わるやいなや
視聴率は20%を超える。


やがて、国民的なドラマ、
感動的なドラマとして多くの支持を得てドラマが終わる。

それから以後は、不規則ではあるものの、
単発の長時間ドラマとして
都合10年以上にわたって放映され続ける。


だから小学生として登場した子どもたちが、
後々の単発ドラマでは

結婚するところまでも(それがまたドラマとして)描かれた。

(単発ドラマスペシャル放映=83年3月、
84年9月、87年3月、89年3月、
92年5月……2002年9月と都合20年以上で8話11本)


で、僕は今回初めて知ることになったのだが、
上述したように

倉本聰と山田太一の二人は裏番組として対決していたのだった。


■人気脚本家が太鼓判――山田太一の名作ドラマ

ところで上述した山田太一ドラマ「想い出づくり」については以前、
このブログでもかなり突っこんでとりあげている。

ぼくはこの名作ドラマをリアルタイムでは見ていない。

どうして見逃したのか覚えておらず、
以前とりあげたブログでも多少そのことについて触れたのだった。

見なかったはずだ。いや、見ることができなかったはずだ。
裏番組だったのだから。

僕は「北の国から」を見ていたのだった。


このブログでテレビドラマに触れたりとりあげたりする機会は
すくないけれど、

その少ないはずのドラマについて、
やはり山田太一ドラマとしては名作だからだろうか、
「想い出づくり」をとりあげている。


それは脚本家の岡田恵和(連続テレビ小説・ちゅらさん/映画・阪急電車片道15分の奇跡、県庁おもてなし課など)が、

このドラマを絶賛していたからだ。
次のように。

「バイブルみたいなものです。完璧。

山田さんのというより、全ドラマの第一位です。

すべてのことをこのドラマから学ばせていただきました。

ドラマであまり描かれない、
市井の人たちの描き方、

正論と正論のぶつかり。(中略)語りつくせないドラマです」


「へェ〜、そこまで」と思い、
それで興味を覚え、

以前にすこしこのドラマのことを調べたり見たりして、
それでブログにアップしたのだった。

そちらは多少、この倉本聰について記したブログとはちがって
山田太一を論じているので、

興味のある方はどうぞ――。






倉本聰――ドラマ視聴者の心を鷲づかみにした秘訣は、北島三郎の付き人体験!


倉本聰――ドラマ視聴者の心を鷲づかみにした

秘訣は、北島三郎の付き人体験!



2015年8月19日(水)


今月の日経「私の履歴書」は脚本家の倉本聰。

北の国から


(大御所だから当然だけど)倉本聰にはドラマ(物語)創作における倉本一流の秘訣や名言が少なくない。

たとえば「ドラマチック」は「ドラマ」と「チック」に分割できて、ドラマ視聴者の感情にうったえたり、心を動かしたりするのは「チック」なんだとか――。

もちろん、この程度の説明では「チック」って具体的にどういうことかと言われれば、理解するだけで、いくつかの具体例がいるし、もし使いこなそうとすれば、それだけで、相当数の事例を消化することで身に付くものだから、ここではそのことには触れない。

タイトルに示した「北島三郎付き人体験」も倉本流創作術の根幹について語ったものだ。

倉本は御歳80歳。この付き人体験というのは、今から40年ぐらい前(1976年頃)のことになる。

NHK大河ドラマ(勝海舟・74年)でスタッフと大げんかをして、北海道に姿をくらましシナリオを降板。

ヤケでススキノを毎晩のように飲み歩き、このままでは業界から干されるだろうし、生活があるからタクシーかトラックの運転手にでもなるかというところで、フジテレビから業界批判ドラマでもいいから「好きなように書いてください」という脚本の依頼があり、札幌で再びホンヤさん(脚本家)として動きだしていたところだった。

そのころに願い出て、北島三郎の巡回「演歌公演」に4、5回、付き人として同行している。付き人体験に触れる前に下を読んで欲しい。やはり倉本発言だが、ネットにあったものだ。引用する。

「テレビドラマっていうもんはね。まず第一にエンターテインメントじゃなくちゃいけない。一千万以上の人にぶつけるんだから、面白くなくちゃ、始まらない。大前提としてこれはあるわけだ。特に北島三郎の付き人をしてから、このことは固く心に誓ったよ」


これは後進のシナリオを勉強するライターに向けての発言のひとこま。

「大前提としてこれはあるわけだ」でわかるように、大衆を相手にしての、エンターテインメントの重要性を倉本は、この付き人体験後に骨に徹するようになるが、(ネットだからか)この発言にはこれ以上の説明も何もないので(理解も深まりも)それ以上には膨らましようがなかった。
そしたら今朝の履歴書が、その北島三郎の付き人体験に触れていたのだ。

付き人体験以前のことだが、北島には、倉本の自作ドラマに特別出演で出てもらっている。

撮影現場は小樽。

撮影当日、多忙な北島が東京から千歳にやってくる。が、あいにくの大雪で北島の乗ったタクシーは大渋滞に巻き込まれ立ち往生。どこを走っているのか所在の連絡が取れない。一計を案じ、タクシー会社の無線を通じて現在地を伝えてもらう。

それで撮影現場に集まったロケ見物の地元の人たちに、「現在、銭函インター通過」「小樽まであと15分」などと伝えるとその都度、歓声があがり、到着したら、現場は割れんばかりの大喝采。

現場の錚々たる出演俳優を尻目に人気を独り占めし、完全に主役、と倉本。

「このサブちゃん人気って何だろう?」 と考え、付き人を志願。


ほとんど同じ頃だが、ぼくも仕事で北海道に40日ほどいたことがある。

その時、感じたものだ。
当時、北島三郎の人気はもちろん全国区。北海道が生んだ大スターである。が、同じ人気でも、北海道でのサブちゃん人気は東京や全国区での人気とは異なるものを感じた。どこか身内に寄せるような、何となくあたたかい肌感覚のようなものを。
北海道では、サブちゃんに対するとらえ方は、同じ人気でもまったく別物だと――。

おそらく同じ道産子だという地域性が一番の理由だったかもしれない。

話を戻そう。
演歌公演の会場で倉本は、サブちゃんと客席とのやりとりに瞠目する。
公演は二部制で、第1部がヒットパレード、第2部がリクエストタイム。

で、今日付けの「履歴書」での倉本の発言。
「これがすごい。僕は心底感動して、目からうろこがガリガリとはがれる音が聞こえてくる気がした」

北島三郎は会場で言ったという。
「俺は北海道を出て東京の渋谷で何年も流しをしてた。リクエストされて歌えなかった歌はひとつもない」
「さあ、何でも来い!!」

会場は異様な興奮で盛りあがり、
皆が叫ぶ曲名をサブちゃんは「小気味よくさばいて次々に歌う」。


そこで、心底感動したのだった。

「垣根がない!」
サブちゃんと客席のやり取りには、垣根がない。
「年齢や性別、職業や身分など一切の区別がなく、人と人とが水平にぶつかり合っていた」

倉本は「俺はこれまで何をしてきたんだ」と恥じ入り、無意識に自分のなかにあるエリート意識で「上から目線」で、批評家や業界人の目ばかりを気にして脚本を書いてきたことを自戒。

そうじゃない。「テレビドラマは大衆のものだ」と。
そこで「地べた目線」でドラマを書くぞ、と決意する。

この「地べた目線」が「北の国から」などに結実するということだろう。


尚、冒頭で触れた「チック」だが、これについては牧野省三だったかが、やはり言ったという。
「このホンには、ドラマはあるがチックがない」と。

この「チック」は、倉本ドラマを成す要諦とも言える重要な創作術のようだ。








仙台市議選・野党が圧勝――「安保法案」に対する、これが民意なのだが……

2015年8月3日(月)

これが、民意と言うことだろう。

昨日2日、ぼくの故郷の仙台で市議会議員選挙があった。

地元紙の河北新報デジタル版が伝えるところによると、市内には全部で五つの選挙区があり、そのうち三つの選挙区で共産党が首位を占め、他の一つも野党候補が首位とのことで、都合四つの選挙区で野党がトップ当選を果たしている。

反面、逆風にあおられ、防戦を余儀なくされた自民候補等は苦しい守りを強いられたと記事は伝えている。

東京渋谷では昨日、高校生の安保法案反対デモがあった。これまで政治に無関心だった大学生や高校生の若者が、安保法案のおかげで関心を示すようになった。

渋谷では高校生デモのほかにも「子供を守ろう」という別の安保法案反対デモが同じ日にあったし、ぼくの地元吉祥寺・三鷹でもやはり昨日2日、安保法案反対デモがあった。

吉祥寺デモ
吉祥寺での安保法案反対デモ

各メディアによる安保法案への世論調査の結果が示すとおり、市議選の結果はもとより、若者のデモも“チェンジ”を求める素直な反応であり、民意の変化の具体的な表れとして評価したい。

と記して、実はこの民意には問題もある。市議選と国政選挙では市民の意識も異なるだろうが、自民党の一強と野党の他弱をもたらしているのは、野党の統一候補の絞り込み欠如にある。野党の連携がない。

その欠如をもたらしているのが共産党による選挙区ごとの独自候補擁立にある。
自民は自公による統一候補で票を獲得し、他方の野党は統一候補jも無くバラバラ。これでは、まず勝てない。

野党が多弱から抜け出すには、その辺りの、そもそもの選挙戦術がいるのではないのか、特に共産党は。








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