玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

October 2012

1100億円相当を廃棄処分! 賞味期限と商慣行ルールとのジレンマ

2012年10月26日(金)

22日の日経MJに「三分の一ルール見直し」という記事があった。スーパーで手にする加工食品や飲料の賞味期限に業界の商慣行として適用されるのがこのルールで、僕もはじめて知った。

「製造日から賞味期限までのうち、三分の一を経過した商品を小売りは、卸やメーカーから受け取ら」ず、さらに「三分の二が経過した商品は返品する」商慣行とのことで、大手のスーパーが自主基準を設けて、15年ほど前から広がった。

加工食品
賞味期限(論理)と鮮度志向、消費者意識(感情)とのもみ合い

つまり消費者の「鮮度志向」に応えてのもの。

ところが加工食品の年間売り上げの1%にあたる約1100億円分が、このルールによって一部が安売り店に回る以外、ほとんどが廃棄処分されている。

そのコストは当然、価格に転嫁される。

そしてこのルールの期限に合理的根拠はない。ないのに廃棄する。つまり、食品や資源のムダでしかない。
それでメーカー、卸、スーパーなどの業界横断のワーキンググループが発足し、「見直したい」というのだ。

これって「行きすぎた鮮度競争」ということ。本来なら賞味期限内の加工食品は、品質的にはまったく問題がない。つまり行き過ぎた「消費者意識」がもたらしたものでもあるので、消費者教育も必要ということらしい。

でもですね、僕も、そういいつつ、やはりスーパーでは賞味期限の印字を見比べながら、奥の方から商品を引っ張り出して新しい日付の方を選んでいる。ほとんどのひとは、そうでしょう。

うーむ。それを「変えなさい!」といわれても……ねぇ。
定着した意識を変えるのは、そうそうたやすいことではない。
いや、目の前に商品があれば、自ずとあたらしい日付の商品を買うのが人情。これは難しいぞ!

そして15年前に大手のスーパーが独自に自主基準を設定とあるけど、それはおそらくお役所のルールに反映されない目には見えない「消費者意識」とでもいうものがあって、そこにその大手スーパーとしてはギャップや不都合を感じて独自のルールを適用した。そこには何らかの必然があった。そうすべき必然が。

だから、果たしてこのルールの見直しが、効果を発揮して1100億円の廃棄のムダの是正につながるのかどうか? かなり疑問だ。それが正しいのだろうとは思えども。

このルールは小売りの事情だけではなく、メーカー側にも協力してしまう事情がある。
それは賞味期限間近の商品を販売されるとブランドイメージの低下につながるし、また店頭価格の値崩れを嫌い、小売りからの返品を受け入れてきたという事情もある。

こういうルールって、おそらくどんな業界にも「おかしな(あるいは、その実正しい)商慣行」としてあるはず。つまり、見直したくても、なかなか見直せないルールなんでしょう、これって。

印字された賞味期限の鮮度は、比べれはおのずと明らかで目に見えるが、「意識」は目に見えない。そしてその見えない「意識」によって、世界一厳しいといわれる日本の「消費者意識」がはぐくまれ、その意識は「見えないルール」として存在している。その一角に切り込んで、はたして、それを切りくずせるのかどうか。これは難しい。

立花隆が解く「勝海舟が、東京大学の生みの親だった……」


立花隆が解く

「勝海舟が、東京大学の生みの親だった……」



2012年10月23日(火)


この秋のぼくの読書は、ちょっとした立花隆のマイブーム。

きっかけは『天皇と東大』を手にしたことによる。

立花の書は70年代から読んできたが、この10年、まったく読まなかったとは言わないまでも、ほとんど手にする機会がなくなり縁遠くなっていた。

90年代後半に立花が東大で教鞭をとったのは知っていたが、『天皇と東大』の刊行は知らなかった。

もっともこの書は、タイトルこそ東大とあるが(05年刊行)、

中身はむしろ日本の近現代史そのもので、

「日本という近代国家がどのようにして作られ、

それがどのようにして現代日本(戦後日本)につながる」のかを

「東大という覗き窓」を通して見た書だ。

「東大は勝海舟が作った」で第一章がはじまる。


天皇と東大

その勝海舟と東大のつながりに少し触れておこう。

東大の源流は二つある。

一つは外国事情の情報収集とその研究を旨とすることで設立された「洋学所」(1855年/安政2年)――「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」――「大学南校」(明治2年)――(中略)――「東京開成学校」(明治7年)――東京大学(明治10年)――帝国大学(明治19年)の流れであり、

もう一つが医学に関わる「種痘所」(安政5年)――「医学所」――「大学東校」(明治2年)――(中略)――東京医学校(明治7年)――東京大学(以下同上)の流れだ。


「蕃書調所」の名称は、
それまで江戸幕府の学問の正道だった漢学畑(昌平坂学問所=林大学頭)からの横やりがはいり、洋学の名前を冠した公的学問所はまかりならんと異議が出てのこと。

それまで中国語を介することで海外の情報をしいれて権勢を誇ってきた漢学畑すなわち儒官たちも、洋楽の専門情報の急激な需要にあっては、すでにもう時代に取り残され無能をさらけ出していた。

昌平坂学問所はのちに「昌平校」と名前を変えるが、明治になってすぐ閉鎖され、廃止に至る。

ところで、上記の明治10年の東京大学は高等教育乱立時代なので、いわゆる今日の「東大」のイメージであるところの、突出し睥睨するような位置づけの学校ではなかった

この当時は現在で言うところの中央省庁がそれぞれに高等教育のための学校を設立しており、この東京大学も文部省所管の学校の名称でしかなかった。

当時は司法省や、開拓使、農商務省などがそれぞれ独自の学校を保有しており、法学校、工部大学校、そして有名なところではクラーク博士で知られる札幌農学校などがある。

今日の東大のイメージが確立するのは初代文部大臣森有礼(もり ありのり)によるものだ

森は学校制度の大改革を行う

当時は高等教育乱立時代と上述したように、無秩序な学校群による高等教育の混乱時代でもあった。

6・3・3・4制のようにすっきりしたものではなく複雑だったので、学んでいる学生達ですら、どの学校に進んだらいいのか迷うほど。

その複雑な教育制度にメスを入れてシステム化したのが森だ

当時の有力校だった司法省の法学校や工部省の工部大学校などを東京大学に吸収し、法医工文理の五つの文科大学をもつ総合大学に再編。これが帝国大学だ

以後、帝国大学を頂点とする教育のヒエラルヒーが幕を切って落とされるということだ。


さて勝海舟である

ペリーの来航に際して対応に苦慮した幕府は、大名、旗本、武士、庶民にまで広く意見を求めて呼びかける。

それに応じた一人が勝海舟で、彼は老中への意見書を具申。

「西洋風に兵制を改革し、軍艦を作り、火薬、武器を製造し、兵を西洋風に教練することなど軍事面に広く及ぶ提案」を行ったのだ。

この中で勝は注目すべき提案をしている。

「兵を教練するための学校を江戸近郊に作れ」

これで勝は幕府中枢の注目を浴び、大抜擢されることになる。

勝の教練学校の構想は、洋学所のそれと重なる。

そうして勝はその見識をかわれ、洋楽所を改めた「蕃書調所」の設立準備委員のような役目をおおせつかることになる。

「蕃書調所」をどのぐらいの規模でどこの場所に、どのような人材をどれぐらい集め、どれぐらい費用をかけるか、その組織の目的はどう設定するか等々。

要するに勝は「蕃書調所」のマスタープランをもう一人の同輩と作り上げるのである。

マスタープランにゴーサインが出て、教官の人選交渉なども勝が行った。
つまり、「東京大学のいちばん基礎作りをしたのは、勝海舟であった」と。

一見、歴史書の趣だが、そこは立花隆である。ノンフィクションレポートととしてこれらが語られる。

だから次々と知らない事実が出てくる。おもしろくないわけがない。

歴史好きには応えられないすこぶる付きの面白さで、個人的には、これまで読んだ立花隆の著書では、これが一番おもしろいのではないかと思われ、興奮しつつ読んでいる。

でこの『天皇と東大』を手にしたら、他の立花の著書にも及ぶことに。

この書と姉妹書の『東大生はバカになったか』、それに『滅びゆく国家』と手に取った。

これら三冊はまだ読み終えておらず、あっちに飛び、こっちに飛んでという具合で併読しているところ。

それに前回のブログで取り上げた『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』も手にして、この書と一緒に『「知」のソフトウェア』(再読)を読み終える(後で手にしたこっちの二冊が先に読了)。

そしてこれらの書の影響で、立花以外の他の著者の書物も手に取ることに。

たとえば「東大生はバカ――」から、フランスの文系の高校生が学ぶという哲学の教科書でP・フルキエの『哲学講義』(入門書だが本格派。中村雄二郎訳が4分冊でちくま学芸文庫に)、
次に理系の高校生が学ぶやはり哲学の教科書で、ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』、ついでにシモーヌ・ヴェ−ユも高校の哲学教師だったということでヴェーユの『哲学講義』も。

これらの哲学書がすばらしいのは、知識としての哲学ではなく、「哲学すること」を学ぶための教科書だということ

生徒に「哲学的思索」をさせることを学ばせる実践的な訓練の教科書なのだ。

ハーバードのサンデル教授による法哲学の講義スタイルが話題になったが、あのような講義スタイルによる哲学の授業を想起していいだろう。

正解のない問題について深く考えることを学ぶのだ。フランスでは高校教育(リセ)の総仕上げとして、こうした哲学の教育がおこなわれる。

フルキエの『哲学講義』は、立花が、「東大生はバカ――」のなかに、この書を参考にしてディープな「教養論」を展開している。

まあ、これらの哲学教科書は、読むというより、座右において気長に、気分でつきあってひもとくつもり。

こうして挙げただけでもう、十分腹がくちくなるほどの本の数だが、そのほかにも仕事用の資料読みがあり、気分転換で白土三平『カムイ伝』も手にしてどうにか第二部まで読了したところ(20巻以上あります)。

それに「ドラゴンタットーの女」に続く、読むのがたのしみな『ミレニアム2 火と戯れる女』も座右に積んである。こっちはいつ読めるか。

立花の著書は読みすすむにつれ、まだあれやこれやと派生して出てくる書がありそう。

新規の仕事があるので、読書の愉しみを脇に控えながらの秋の日々だ。


※参考 竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』





一冊を10分で読む、立花隆の速読術! 誰もができる 知の巨人立花隆・驚異の「速読術・読書術」


一冊を10分で読む、立花隆の速読術!



誰もができる

知の巨人立花隆・

驚異の「速読術・読書術」





立花本


立花隆が、


立花独自の、


いわば「立花流速読術」のポイントについて述べている。


こうだ。(以下、背景が薄茶の太字部分は引用)

「パラグラフ(段落)単位で

パラグラフの頭の文章だけを次々に読んでしまうのである

(大事なことは
パラグラフの最初のセンテンスに書かれていること が多い)。


続き具合がわからなくても
とりあえずワンセンテンスでやめて(これが大事)、

次のパラグラフの頭の文章に飛ぶ。


それだけのことなら、
1ページ 1秒、ちょっと遅くても2、3秒で読める。


300ページの本で、300秒から900秒、
つまり、5分から15分しかかからない。


時間に余裕があったら、
パ ラグラフのお尻のワンセンテンスも次々に読んでいくことを加えるのもよい。
お尻に大事なことが書いてあることも多い。


それに加えて、章か節の小見出しだけはちゃんと読み、
図表もある程度見ておくとして、
その倍の時間があれば十分だろう」


というわけだが、その前提がある。

「速読は、できるものとできないものがある。
しやすいものとしにくいものといってもよい」


「趣味性が高い内容を持った本は、
そもそも速読できないし、できたとしても速読すべきでないだろう」


「一般的にいって、読むこと自体を楽しもうという本は、
速読しないほうがいい」


上記は立花隆の著書『僕が読んだ面白い本・ダメな本 
そして僕の大量読書術・驚異の速読術』からの抜き書きだ。

このブログでは、タイトルの後半にある読書術・速読術について、
いわば立花隆流速読術の考え方と技術的なポイントと思える個所を絞りこみ、触れている。(以下、太字は引用箇所)

立花本


要はパラグラフを全部読まず、
はしょって読むことが鍵とのこと。


ただしこれだけでは、
前後の文脈やその他の説明がないので理解の深まりはないかもしれない。

以下を読むと、
もう少し理解が進むはず。


「速読が可能でかつ速読したほうが得なのは、
読むこと自体を楽しむ本ではなく、


情報が沢山つまった、多少専門的な内容の本で、
書かれている情報の読み取りそのものを目的とする
参考資料のたぐいである」
(参考資料のたぐい=政府の「××白書」など)


「こういうもの(参考資料のたぐい)は、
情報のエッセンスはすべて図表チャートのたぐいにおさめられているから、
それを中心に見ていけばよい。


文字情報は従(つけ足し)だと思って、
図表中心に理解をすすめていき、
それだけでわかってしまえば文章は読まなくてもよい」


「――文章は読まなくてもよい」。その一つの具体例として、
サイエンス系の学会発表を立花は挙げている。

彼等はどうして短時間で(数分の場合も)、あれほどと思えるほどの、
情報密度の濃い発表ができるのかについてだ。

それは、「発表のエッセンスが、
OHP、スライドなどによって視覚的にまとめられ、
言語情報はそのつけ足し程度にしか用いられないから」
とのこと。

なるほど、視覚にうったえる図表のような情報があれば、
文章の説明を無視していいわけだ。

いや、むしろ無視すべきだと言っている。

こうした要点を押さえたうえでの、立花流の速読術ということだ。

「速読は、できるものとできないものがある」というような、わかりやすい、
いわば、こうした速読術のプロローグともいえる解釈や十分な説明を経て、
パラグラフについての技術的な読み方の手法にいたる。

もちろん、この技術は立花流速読のキモではあるものの、
これがすべてではない。

ちまたの速読術の本には眼の訓練などの様々なテクニックの解説があるが、
立花によると、「基本は、テクニックより熱中」とのこと。

熱中することで、脳の働きが何倍もよくなる(情報処理スピードがあがる)というのだ。

「熱中」の他にもうひとつ、
基本ともいえるのが書物の「全体構造」の把握だ。

その全体構造とは次のようなものだ。

読みにくい本を何とか読んでしまうテクニックとして立花が述べているのだが、
「第一歩は、その本の構造をつかむことにある。

一般に、本はパラグラフ(段落)単位で書かれていて、
パラグラフがいくつか集まって節や章になっている」
として、

いわば本は、建造物のようにパラグラフ(段落)という煉瓦が
一つ一つ積み上げられたような構造体なのだ、と。

そして「煉瓦がいくつか集まってブロック(節)をつくり、
ブロックがいくつか集まって局部構造体(章)をつくっている」
として、
その全体構造(←局部構造←ブロック)を見抜けと述べている。

立花隆がすごいのは(読ませるのは)、
たとえ抽象的な説明であっても、
その裏には事実やデータなどの裏付けがあるところだろう。

速読の具体的な技術であるパラグラフのとばし読みについては、
人間の視野と脳の認知過程とのかんけいにも言いおよび、

本を読んでいるときに「眼が何を見ているか」、
つまり人間の眼が本の行をどのように追っているのかについても、

下記のように眼の生理や知覚まで持ちだして説明している。

専門的でわかりずらいけど、少しだけ引用し た。流し読みで結構。

「実は、人間が何かをちゃんと読むためには、
網膜中心の中心窩と呼ばれるごく小さな部分に焦点を合わせなければならない。


その部分(中枢視野)だけ に、
精密にものを見ることができる錐体細胞が集中的に存在し、


その周辺部分(周辺視野)には
感度がはるかに落ちる桿体細胞しかないからである(中略) バーッと目を走らせるとき、


文字を読むという作業はもちろん錐体細胞が中心になってやっているが、
その間に、残り95%の桿体細胞は遊んでいるのかといえ ば、そうではない。

それなりに周辺情報を脳に送っており、
それが脳の認知過程で重要な役割を果たしているということが
様々な実験でわかっている」


つまりひとが本を読んでいるとき、
(意識では)眼が本のページの1行を追っていても、
眼の生理上、じっさいの眼の走りは数行一緒に追っているというのだ。

だか らなんとなく、文章の流れが把握できているとのこと。

人間の眼というのはそういう見方なり、
読み方をしているんだなというのがわかる。

で、この著書のタイトルからわかるように、
長文短文はあれど、

この本は300冊ぐらいの書物の案内もしており(そっちがメイン)、
その本のなが〜い序文 (60ページもある)として立花流の読書術・速読術が、
えんえん語られている。
でもそこは立花隆だから、(読ませる内容で)ちっとも長さを感じさせない。

読書には最適の時節。
立花流だから、真似できるかはどうかはともかく、
自分流に応用するなりすれば、十分に役立つのではないか。

冒頭のパラグラフの飛ばし 読みについても、
もう少しちゃんとその本を読みたいなら、頭に戻って、

今度はパラグラフ単位で読む文章を
もうワンセンテンスないしは数センテンス増やして みるなど、

自分の必要に応じて、
自分好みで適当に取り組むのもいいと立花御大は述べている。

僕が個人的にこのセンテンス飛ばし読みをやってみて大事だと思うのは、
立花が言ってるように

「続き具合がわからなくとも、ワンセンテンスでやめて、次のパラグラフに飛ぶ」こと。

1冊をこの手法で読み終えると、
容易にそういう習慣が身に付くし、
飛ばし読みでも、意外にも本の全体の内容が頭にのこる。

それからだ、センテンスを増やして読むのは。


立花には、80年代半ばに編んだ
『知のソフトウェア』という情報の整理術についての優れた新書があり、

そこにも立花流読書術についての簡単な記述があるけれど、
ここまでその手法をくわしく語っているのは、この書だけだろう。

ともあれ、この速読術だが、
信じがたいほどの速さで読めることは間違いない。

気づいたことは(まだ確かにはいえないけれど)、
書物の書き手の、文章の明晰さと論理性の高い低いにも関わってくるのだが、

明晰で高い論理性の文章ほど、
この立花式の飛ばし読み、センテンスのスキップ読みは、
より読みやすく(理解 しやすく)頭にのこるようだ。

それから、文庫本や新聞などの
上下幅の小さな文章を読むのがもどかしくなってくる。

眼が字面の上を速く走ってしまうのだ。
文章を読んでいるというより、眼 が文字の流れや固まりを追って走っていくような感じになる。

読むのではなく面で文章をとらえてしまうからだろう。

これって、おそらく慣れると、
立花が指摘 しているように文章のなかのキーワードや重要なフレーズが
自ずと脳に引っかかってくるのではないかと思う。

なんであれ興味を覚えた方は、
原著を直接手にしてみることをお薦めする。

軽快な読書の速度感は興奮ものですから……。

ついでながら、やはり立花の著書で
情報のインプット、アウトプットについて編まれた
「知のソフトウエァ」も併読すれば、鬼に金棒。



※追伸 立花流の飛ばし読み、センテンスのスキップ読みを自分流に一応、
マスターすると、書物はもちろん、
ネット上のニュース記事などの読み方もすっかり変わります。

その記事についての多少の知識があると、
もうどんどん飛ばし読みができて、
信じられないほどの速さで読み終わります。

なによりも、目が文章(パラグラフ)の要点となるキーワードを求めて
読むようになります。

意識するしないにかかわらず、
目は文章を面でとらえて読むようになるんですね。

おそらく、ネット上だと、
横書きの文章が視覚によい意味で影響を及ぼしているのでは。

ネット上の文章を読む速度が、
つまりネットからの時間あたりの情報収集力が大幅にあがることでしょう。
まさに雲泥の差といえます。




2012年10月11日(木)


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