玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

July 2012

これはもう、映像表現の新次元だネ! “3Dプロジェクションマッピング”が魅せる、奇跡の大型映像

2012年7月21日(土)

最新の映像関係の技術で、驚いたものがある。
ぼくが知ったのは今年に入ってからだけど、「3Dプロジェクションマッピング」という映像技術。

これは、建物全体の壁面をスクリーンに見立てて、大型映像を映しだすという仕掛けだ。
たとえば、復元されて新しくなった赤レンガ造りの東京駅丸の内口の外観を想起してほしい。あのデコボコの外観の壁面全体をスクリーンに見立てて大型映像を映してしまう技術のこと。

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3Dプロジェクションマッピングの映像(成蹊学園HPより)

スクリーンは通常「2D」で、平面が普通だ。ところがこの技術は、建物のデコボコを逆に利用して映像を表現する。そういうところがまさに「3D」。

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成蹊学園の本館がスクリーン(成蹊学園HPより)

いま、「利用」と言ったけど、これ日本では、ほぼはじめて開発(公開)されたに等しい技術。この「3Dプロジェクションマッピング」の技術は欧米で3、4年前に開発されたもので、日本ではほとんど未知数だった。
(ちなみに、プロ用や専門家相手の映像や音響となると、技術は圧倒的に欧米が先行している)

「3Dプロジェクションマッピング」の映像制作には緻密な作業が要求される。デコボコの建物壁面だから、映し出される映像(CGが主体)を一分の狂いもないように(凹凸に)フィットして映し出すために、まず3Dのレーザースキャナを使用して、建物の立体の形状の凹凸、つまりデコボコをすべて計測したうえでの映像制作になるらしい。

それから、スクリーンとなる建物の壁面がレンガなら、その質感を出すために、レンガへの反射率はどれぐらいで、どれぐらいの色を当てると、これぐらいの見え方になる、などと分析をしてから映像制作にとりかかるなど、やたらめったら、ややこしいらしい。

「3Dプロジェクションマッピング」は、映像レンタル機器を扱うぼくも知ってる会社のHPにたまたま案内があったので知ったのだが、悔しいかな、この日本一の規模で催された新技術によるこの大型映像イベントの開催地は、なんと僕の地元。

吉祥寺にある成蹊大学の創立100周年を記念しての学園祭だった。11年の秋に開催されている。

100年記念の学園祭が開催される事は知ってたけど、まさか、こんな映像技術が披露されるとは……。知ってれば、当然見に行ったのに。残念。
しかも、これを手がけた映像関連企業は(もちろんスタッフも)ぼくの知ってるところだから、それもまた残念。

それから、この映像イベントを開催するにはある一定規模の「闇の空間」がベスト。灯りが邪魔になるので、東京駅はその条件を満たすには難しい。

もうひとつ。映像機器レンタル会社が国内トップクラスの、これだけの映像のソフト技術を保有してるわけはないので、この映像作品の制作をリードしたのはNHKプロモーションおよびその他の企業とのプロジェクトだったよし。詳しくはこちらに。http://shuffle.genkosha.com/event/dexs/2012/8035.html


2012夏 宮城の田舎へ帰省 大震災後の今を見る

2012年7月12日(木)
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壮大な混沌たる無秩序がもたらす極度の不安に。破壊し尽くされた種々雑多な事物がはなはだしく無秩序で乱脈、乱雑極まった塊と化しており、その途方もないたたずまいを前にした衝撃――その威圧する巨大なものと圧倒的なカオス状の無秩序とがないまぜになった、捉えどころのないものがもたらしたのは不安であり恐怖でした。それにはもう、ただただこちらは居すくむばかり。(下記の文章の中から抜粋)
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下の写真のお城は、僕の故郷の田舎町にあります。お城は町のシンボルで、駅のホームに隣接して建っています。
天守閣に見えるところは展望室で、マンションだと6〜7階ぐらいの高さでしょうか。

お城2
お城大きい版
仙台伊達家の分家亘理伊達家の城下町です

このお城は町の施設であり、図書館などの公的機関と、今は災害FM局も入っています。そう、本当はお城ではなく、あくまでお城を模した建物です。

亘理伊達家
僕の田舎町は藩政時代、仙台伊達家の分家である「亘理(わたり)伊達家」が治めていた小さな城下町でした。それにあやかってこのお城のような建物が建ったようです。

もっとも、僕が田舎で暮らしていた少年のころは、城下町ということはほとんど認識していませんでした。今は神社になっていますが、〈藩政時代は〉城ではなく一種の砦のような「要害(ようがい)」として存在していたということは、上京してから物の本で知りました。ですから城下町といっても、お城も城跡も存在しません。

ただ城下町としての名残は町の中に未だに残っています。たとえば町の中を南北に貫く道路は、中心部の2カ所で大きな鍵型になっていて、外部からの侵入者(敵)が一目で街中を見通せないような構造になっていますし、一部の町名には城下町の名残があります。

大河ドラマ「独眼竜正宗」の人気に乗じてのアピール?
「伊達一門の城下町です」と町がアピールしだしたのは、NHKの大河ドラマで渡辺謙が演じた「独眼竜政宗」(87年)が爆発的な人気を獲得して以後のことだと僕は記憶しています。

ドラマの中で絶えず正宗の右腕〈片倉小十郎ともに双璧をなす〉として行動をともにしていたのが亘理伊達家のニ代・伊達成実(だてしげざね=演じたのは三浦 友和)ということで、大河の人気にあやかってのことでしょう。

町の多くのひとも、それで自分たちが住む町の歴史を知ったのでは……。ちなみに北海道の伊達市は、戊辰戦争で負けた亘理伊達家の一門が移住したところです

「亘理」という字は、はじめての人には読みにくい字でしたが、東日本大震災以降、被災地としてメディアに出てくるので多少は知られようになったかも知れません。

でも、まさか、自分の郷里が大震災の被災地として知られることになるとは――今でも「被災地なんです」と言葉に出して町の説明をすると、不意に胸に突き上げてくるものがあって一瞬声がつまり、なんともやりきれない思いになります。

町は、仙台駅でローカル線に乗り換え南へ30分ほど走ったところにあり、宮城県南部の福島県寄りに位置します。(ローカル線とは宮城県を走っている常磐線――東京・日暮里駅〜宮城・岩沼駅)

仙台駅ホーム
仙台駅からローカル線へ乗り換え

被災地 荒浜地区
町の沿岸部にある荒浜地区は、東日本大震災の津波の被災地です。かつての市街地(の住宅)が根こそぎ消滅し、がらーんとした荒れ地の空間と化しています。工事の重機などがそこかしこに入っているので交通の制限があり、自由に海岸に近づけません。

※(荒浜地区――仙台の被災地にも同じ名称の地名があります。亘理の荒浜は藩政時代、仙台藩の米や物資を船で運び出したところで、良港として栄えました。輸送に不可欠の水運(運河)は、正宗がこの地の河口まで仙台平野の海岸線に沿って造っています。地元では親しみをこめて「貞山堀」と呼ばれています。「貞山」は正宗の諡〈おくりな〉です。

ここには野鳥が棲息することから名付けられた、入り江状の穏やかな「鳥の海」と呼ばれる内海があります。この地の明媚な風光はすばらしく、とりわけ冬の内陸部を遠望すると、目の前の内海と遠くの南蔵王の雪を頂いた山並みの構図が織りなすその風趣に富んだ景観は息を飲むほどの美しさです。この内海の北側に大きな河川の河口があります。太平洋に注ぐこの河川が、福島県の内陸部を貫流してここに至る阿武隈川です〈今は悲劇の河川ですが〉)

荒浜中学校1
荒浜中学校2
荒浜中学校3
町の沿岸部の被災地の中学校とその周辺です

家屋の消失した平べったい荒れ地のなかの道路を車で走ると、目印の建物がないので、自分がいま走っている道路が想定していた道路ではなく一本北側の道路だったというような間違いを起こしてしまいます。あれっ、違ったぞッ、と後で気がつきます。そういうのは僕だけではないようです。

それに家屋がないのは当然だけど(ぽつんと、残っているところも)、灯りもなく住民もいないので、日が暮れると何とも不気味な雰囲気に様変わりします。家屋が建ち並んでいた市街地の記憶と眼前の闇の空間の光景とでは隔たりがありすぎて、当惑とも困惑ともつかない感情に押し包まれました。

ガレキの山に身がすくむ
さすがにガレキは片づいてますが、福島県に隣接した隣町にはガレキの山がまだありました。そしてこのガレキの山を、小雨の中で車の中からほんの短い間ですが、すぐ近くで見て慄然とし、言葉を失いました。

ガレキ2重機
ガレキの山 その塊に怖じ気づく

それは震災後まもなく、個々のガレキが倒壊した家並みと共にしばらくのあいだ足の踏み場もないほど一面にさらされたままの、人知を越えた壊滅的な惨状に言葉を失ったのとはまた別の意味で、言葉を失う体験でした。

一つにはその大きさに。まさに岸壁に横づけられた巨艦を下から見上げているかの如く、巨大かつ黒々(濡れているのと風化によるものか)とした威圧する小山のような圧倒的に大きな塊ゆえに。

二つには、壮大な混沌たる無秩序がもたらす極度の不安に。破壊し尽くされた種々雑多な事物がはなはだしく無秩序で乱脈、乱雑極まった塊と化しており、その途方もないたたずまいを前にした衝撃――その威圧する巨大なものと圧倒的なカオス状の無秩序とがないまぜになった、捉えどころのないものがもたらしたのは不安であり恐怖でした。それにはもう、ただただこちらは居すくむばかり。

一旦、目をそらして息を整えふたたび目の前の黒々とした圧倒的な塊に視線を向けました。よく見ると、視線のすぐ先には、塊の中の一部分が、まるでこちらに牙を剥く巨大な恐竜よろしく、ある種暴力的なまがまがしさで、今にも襲いかかろうとしているように見えます。

それは住宅の柱なのだろうか、原形をとどめない無惨な姿ではあれど、何本かの黒っぽい太いものや小さな角材がへし折れえぐられ削られて、四方八方に鋭利なものを投げ出し突きだしている。無造作に乱雑にそれこそ無秩序な塊の一部と化してはいるのだが、その中のへし折れた先がいくつか、長くて黒っぽい鋭利な凶器となってこちらに刃向かってでもいるように見える。今にも挑み、のしかかってくるようで……何とも恐ろしくなり、怖じ気づく。
そうした思いに駆られ、ひきつるような精神状態に追いこまれそうで、これまた言葉を失うしかない自分がいました。


仮設
地平線の先が太平洋です 白っぽい建物群が仮設住宅

2仮設
仮設3
お城の東側にある被災者の仮設 約500世帯1000人が暮らす

この前の日曜に田舎で法事があり、それで帰省しました。その時にお城の展望室から撮ったのが上の写真です。震災から486日目の写真です。

お城は太平洋の沿岸部から4キロばかり内陸にはいったところにあります。震災後の数日は電気や水や食糧に不自由し混乱したものの(ガスだけは都市ガスでなく家々のプロパンガスなので使えたらしい)、このお城も含めさいわい町の中心部は津波の被災を受けていません。

お城から見えるのが、町に数か所ある被災者向けの仮設の一つです。このお城から少し離れた東側の水田の一画にあります。

ここは町でいちばん大きな仮設で、現在約500世帯、1,000人が暮らしていると聞きました。さすがに今になって、改めて見に出かけることには被災して住んでいる方たちに遠慮があるので……ひかえましたが。

常磐線亘理駅と、その先への代行バス
ところで、常磐線の北の端は上に記したように岩沼市にある岩沼駅です。ここで東京から北に向かって内陸を走る東北線と、太平洋側を走る常磐線がぶつかります。ついでに言うと、東京から出る国道4号線(日光街道)と国道6号線(水戸街道)が交わるのも、ここ岩沼です。そして、岩沼市と僕の田舎の亘理町の間を流れるのが阿武隈川です。ちなみに岩沼市(と名取市)には、津波被災の象徴的な映像として知られた仙台空港があります。

現在、宮城県の常磐線は仙台から僕の田舎町までしか走っていません。亘理駅以南の駅や線路は津波の被災を受け不通です。ですから今は、仙台から乗り換えたローカル線電車は仙台と亘理の間を折り返し運転しています。

亘理駅ホーム2
仙台〜亘理間で折り返し運転中 常磐線の復旧再開は不明(奥の方が仙台方面 鉄道OB会のフォトを拝借)

亘理駅以南の駅や町への交通による連絡は代行のバスが電車の時間に合わせて動いています。それで複数の大型バスが電車の時間に合わせて頻繁に亘理駅の駅前広場に出入りしています。

真新しいJRの大型バスが数台列をなしているその姿は、静かな田舎町の駅前広場をそれだけでなんとなくあわただしくさせているようでした。
ついでに言うと、代行バスの交通整理をしていたのは、亘理駅以南の駅の駅員さんたちでした。

ちなみに亘理駅以南の一つ先の駅から南の線路は今後、内陸部にルート移設することが決まり、再開は用地買収が済み工事に着工して3年後とのことですが、実際のところ開通がいつになるのかは不明です。

跨線橋のセレモニー
それで、この田舎の駅が変貌してました。以前は真ん中の待避線(?)を含む3本の線路を、東と西の二つのホームで挟んでいたのですが、線路が2本になっているのです。

以前の帰省の時はいつも、仙台からの常磐線の上り電車が田舎町の駅の二つあるホームの海側にある東の(上り専用)ホームに着き、電車の左側から下車するのですが、いまは折り返しだけなので山側にある西の(下り専用)ホームしか使われていません。

だからいつもは東の上り専用ホームに降りて線路の上に架かった跨線橋を渡るのですが、今回は違います。実は跨線橋をわたる時、僕の中で、気持が田舎モードとでもいうものに切り替わるのです――「帰ったなァー」「戻ってきたなァー」と。つまり跨線橋は僕にとって、これから懐かしい人たちにあえるぞッ〜! ここは僕の郷里だぞッー! という田舎へ入りこむ、溶けこむための気持の上でのセレモニーの場だったのです。

ホームに降りて、電車から降りた人混みに交じりながら跨線橋に向かって歩く。ミヤゲものの入ったバッグを手に下げながら階段をのぼり、跨線橋を歩き、階段をおりる。階段の下の方にたどり着くと、視線がとらえる。駅舎の改札を出ようとして、すこし列が膨らんでいる電車からいま降りた人たちを――いつの頃からか、帰省すると、このわずかな時間ではあるものの、そのわずかの時間に、そういう気持の移り変わりをここで感じようになったのです。
駅舎と跨線橋
跨線橋
JR亘理駅の跨線橋と駅舎 (写真奥は東京方面で南側)

感傷と言われればそれまでですが、それが下り専用ホームに下車してそのまま直ぐ駅舎です。電車の降り口も反対の右(山側)ですから、下車してすぐ目の前が改札の出口です。セレモニーを覚えるいとますらありません。改札出口の機器にこちらも機械的に切符を差し込んだだけです。ホームの切り替えがなったことで、僕の気持の切り替えが消滅してしまいました。

別にどうということではないのですが、子どもの頃からこの駅を利用していた身には、田舎の駅のこの変化に、そうか……そういうことかと、納得するものがありました。これも被災地の大きな変化の一つです。

それに、僕の田舎町も含めてこの周辺の町の人たちの勤め先は大半が仙台にありますから、朝晩は相当な利用者の数になっているのでしょう。不通になっている亘理駅以南の駅を利用していた通勤通学客は、朝はバスでこの駅まで運ばれてきて、夕方や夜はこの駅から運ばれていくわけですから。

それでよく見たら、3本あった線路は、駅舎側の旧下り専用の線路が覆われて駅舎と電車の間のホームが張り出したように倍ほどにひろがっていました。それで真ん中の待避線が折り返し専用の線路として使用されています。

駅の南側の線路は使われていませんから草ボウボウですが、地元の鉄道OB会の奉仕により清掃が行われているようです。

ついでに、仙台から30分で亘理ですが、亘理からさらに30分電車で南の東京方面に走ると福島県の相馬です。今は亘理の駅から代行バスで90分。もちろん相馬から仙台への勤め人はすくないですが、常磐線の不通区間ということで代行バスが走っています。その相馬では今月の28日から3日間、甲冑姿の騎馬武者でお馴染みの「相馬野間追」が開催されます。

被災した親戚は
法事の後、津波で家屋を失った親戚も列席していたので、それらの親戚から現在の暮らしぶりの話しに耳を傾けました。

ぼくの質問に、彼らは体験したことはいくらでも話してくれるのですが、ネットなどから得た情報ではむしろ、ぼくの方がより田舎の被災についてのある部分では知識や情報があって、それははじめて聞いた、知らない等々の声もかえってきます。

親戚だから気軽に話してくれますが、この486日間、彼らはなんど同じことを聞かれて、同じことを口にしたことでしょう。

既にあたらしい生活がはじまっているので、今更の感も多少はあるのでしょうが、それでもまだまだ、被災者としての不自由な生活や、大きな変化に翻弄されながら毎日を暮らしているようです。

いや、現状に身を委ねて生きるしかなく、何よりも被災以前の生活にいつになったら戻れるのかは、まず答えられない。

この際だから農業を俺の代で辞めようと語る年上の従兄弟。他の親戚は、30歳そこそこの孫夫婦が最初から家の仕事は手伝わず別の職業に従事していて夫婦と子ども一人の生活で彼らは、仙台の郊外に家を買ったとのこと。その若い家族は震災を経て、却って生活を確かなものにしようということで購入したらしい。色々考えさせられる帰省でした。

取材ならあれもこれも調べて、書き込むわけですが、そうではなく、法事のあいまのわずかな時間で動き回ったなかでの一部を記しました。
東京に戻り、企画書を仕上げて納めるので、2日ほど半分徹夜での作業を終えた後に記したものです。長文を最後まで読んで下さいまして、ありがとう、です。

ある事業破綻企業の、その後がわかった

2012年7月6日(金)

先だって、5、6年振りで知人にあった。ただし知人といっても仕事上ついでに名刺交換した程度の知り合いでしかない仲で、一緒に仕事をしたことはない。

最近、ネット上でその人のツイッター(連動してHPも)を偶然見つけたので連絡をとった。

その人は、僕が世話になったある企業の社長のところで幹部として働いていた(そういう名刺だった)。

その企業は十数億の負債をかかえて倒産。(詳しくは言えないが、クリエイティブ系の企業だから、その意味ではそこそこの負債額かも)

以後、その社長とは連絡が途絶えた。で、ネット上でその知人のツイッターを見つけたので、社長のその後などを知りたくて連絡をとったというわけだ。

ブックフェア
あまり本文とは関係ないフォトです。いま、開催中ですので

その知人は、以前と同じ仕事をしていた。
意外だったのは、潰れた企業の幹部の名刺を持ってはいたが、その人は内部では独立採算で(彼個人の会社として)動いていたとのこと。

意外でもないか。クリエイティブ系の企業ならプロジェクト仕事が多く、仕事のパートパートを分野分野のプロが担当するうえで、その方が好都合なので同じ事務所に同居しているというケースは――珍しくないかも。

いささか驚いたのは、潰れた会社に対して債権者だったというのである。一部の売上げが回収できてないとのこと。もっとも、世話になったのでその分の回収はまったく考えていないとも。(微妙な内容ですから、次々質問を繰り出すというわけにも、なかなかいかなかったのですが)

ところで、ツイッターでその知人は私的なことにも言及している。だから、少しは彼の私生活がわかる。

私生活が分かるけど、先日会ったときにはまったく彼の私生活には触れなかった。
倒産以後の社長や社員たちの行方や様子などを尋ねたり、新規の仕事があったらご一緒できるかもしれませんね(僕と同世代です)などと話していたら、実際に仕事のことに話が及び、私的なことに触れる機会を逸してしまった。

でも不思議だね。話をしていてそのとき、僕の脳裏の片隅には、彼のツイッターをつうじて知った彼自身のことが、次々と思い浮かんだのです。

あなたがいま体のどこを痛めているのか知ってるし、家族が入院してるのも知っている。仕事で地方都市へ出向いたのも知ってるし、久しぶりにその地方都市に滞在して何をやって、どこへ出向き、何を感じたのかも知っている。

机を挟んで向かいあって話しながら、時折そんなことを思い浮かべ、なんか、妙なこそばゆさを覚えた。

相手の私生活のことを付き合いのなかで知ってるのなら気兼ねなく話に出せるけど、ほとんど話しをするのは初めてという相手と、単に情報としてツイッターで知ったその相手のことを、しかもビジネスの場で仕事の話しの緊張感がただよっているなかで(話し終えた後ですが)、いきなり相手の私生活に立ち入って話していいものかどうか、いささか迷った。

まぁ、相手との間合いというか、微妙な距離感というか、それまで話していた内容のこともあって、そのことが僕に小さな歯止めとして働き……ここは「やめとこ」ということで話さなかったのですが。

話したからといって、どうと言うことはないんですけどね。
HPを見た(見つけた)として相手に電話で連絡を取ったわけですが、ということはツイッターも読んでるなと、当然、その知人は思ってるでしょうから。

「読みましたヨ!」といったら、相手は喜んでくれたかも。「いゃー、恥ずかしいな〜」なんて言いながら。

まっ、次回があるから、その時は意に介さず、話しだそっと。

――企画書作業のなかで、ちょっと気分転換に書いたブログです――


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