2011年7月28日(木)
津波の被災は「見える」が、放射能被害は「見えない」。ノンフィクションの書き手としては第一人者である佐野眞一が、同じ被災地であっても三陸と福島では異質なものを感じたと語っている(27日の日経夕刊)。
饒舌に経験を語りたがる三陸の人たちの津波体験があれば、一方の福島は寡黙で口が重い。後者は感情を吐露できず、まるで封印されているようだった、と。これらの地に取材に入って(3月中旬)感じたのは文字通り「見える」と「見えない」の違いで、「見えない」放射能の恐怖が人を寡黙にさせるのだろうと佐野。
まだある。ノンフィクションの書き手故だろう、そして仕事であるかどうかはともかくそうした現場を見ることに意味があるからだろう、数々の災害や事故の現場をみてきたという。特に今回の震災と阪神大震災や911の米同時テロの事故現場と較べて、それらとも大きく違うと感じたとも。
阪神大震災では助けを求める声がし、救急車が走り廻っており、人の体温や声を感じとることができた。しかし津波が建物をさらった被災地では、痕跡そのものがなかった。消滅していた、と。
佐野はこの取材で『津波と原発』を著した。今回の地震と津波による被災はその圧倒的な現実を突きつけるにふさわしく、メディアによるおびただしい量の報道がなされたし、ひと頃よりその量は減ったものの現在も続いている。
メディアによる大量の報道がある一方で、一人の書き手による愚直とも言える地道な事実の積み重ねにより著された書籍での発言がある。メディアによる大量の報道があれば、それで十分に情報は事足りる。なのに、一人のノンフィクションの書き手の意見にぼくらは耳を傾ける。その書き手の発言に注目する。
それは何故か? 何故なのか? と問えば、あまりにも問題が大きくなるので、この場で論じる事ではない。でもちょっとだけ触れておきたい。
ぼく自身、ライターを生業としているのでわかるのだが、時には一切の予備知識もなく取材に向かうときもある。本来なら取材相手や対象に対して予備知識やそれなりの勉強はしたほうがいい。それを分かっていても、せずに向かう。その程度の取材対象でしかない、と言われればそれまでだが、それは「現場」の持つ強み、「現場」が語る強みを認識しているからだ。「現場」が読み手の注意を喚起するナニモノかを持っている。取材でそれが手に入る。それを書けば、それなりの原稿は仕上がる。
「ナニモノ」を分かりやすく別の言葉に置き換えれば「臨場感」とでもいえる。書き手にとっては強力なアピールに通じ、現場の匂いは読者を惹きつける。現場は、いわばその書き手だけが提供できる、限定的な地域特産品にもふさわしい「情報」とも言える。
ところで「臨場感」はメディアの報道も伝えてくれる。そして特に大きなメディアは量も多い。なのに何故?
違いがある、いくつかの違いが。たとえば「主語」の有無。メディアが取材して伝えてくれる。でもそこには「主語が不在」だ。大手のメディアが報じる内容はどこも画一的で同じ。A社の報道内容をB社に置き換えても同じ。顔のないのっぺりした報道でしかない。
その点、ノンフィクションの書き手には「顔がある」。その顔が何を語るか、現場をどう解釈したか。そこには書き手の明かな「主語」が存在する。現場を、臨場感をどう掘り下げてより深い次元でどう解釈したか。切り込みかた、掘り下げた内容、何を感じて何を伝えるべきか。そこには間違いなく「わたくし」が存在する。主語が存在する。たしかな伝え手が存在する。
原発を取材して佐野が耳にする「原発労働者は誇りを持てない」というフレーズ。
佐野が語る。エネルギー産業を時間軸や歴史軸のなかでも捉えてみる。
「同じエネルギー産業での炭坑からは歌や物語が生まれたのに、原発はそうではない。それが原発とは何かを端的に物語っているのではないか」
さらに、「日本人は原発について真剣に考えてこなかった。高度経済成長から続く知的怠慢だと思う」
「(原発の)システムさえ動かせば元通りになると思うのは問題だ。我々はこれまでたどってきたのと違う道も模索すべきだ」
こういう「わたくし」の存在する発言は、事実の積み重ねに依ったものだから重く説得力がある。もちろん、こうした発言を支えるのは事実の積み重ねだけではない。前後左右、上と下、まさに変幻自在の360度の視点を働かせてのものではあれど、それはやはり書き手独自の幅広い豊かな知見に裏付けられている。
一見関係もないような文学だったり哲学だったり、書き手の専門領域があれば、その分野から派生する幅広い学問的な知識もそうで、それ等をひもとくことに苦痛を感じない精神が要求される。そしてそれにはある一定量とでもいうか、ある反応をもたらすのに最低限これだけは要るという閾値(しきち)とでもいうべきあるレベルが存在するのかもしれない。それを超えるとまさに化学反応の如く、自由自在の視点がはばたく。
津波の被災は「見える」が、放射能被害は「見えない」。ノンフィクションの書き手としては第一人者である佐野眞一が、同じ被災地であっても三陸と福島では異質なものを感じたと語っている(27日の日経夕刊)。
饒舌に経験を語りたがる三陸の人たちの津波体験があれば、一方の福島は寡黙で口が重い。後者は感情を吐露できず、まるで封印されているようだった、と。これらの地に取材に入って(3月中旬)感じたのは文字通り「見える」と「見えない」の違いで、「見えない」放射能の恐怖が人を寡黙にさせるのだろうと佐野。
まだある。ノンフィクションの書き手故だろう、そして仕事であるかどうかはともかくそうした現場を見ることに意味があるからだろう、数々の災害や事故の現場をみてきたという。特に今回の震災と阪神大震災や911の米同時テロの事故現場と較べて、それらとも大きく違うと感じたとも。
阪神大震災では助けを求める声がし、救急車が走り廻っており、人の体温や声を感じとることができた。しかし津波が建物をさらった被災地では、痕跡そのものがなかった。消滅していた、と。
佐野はこの取材で『津波と原発』を著した。今回の地震と津波による被災はその圧倒的な現実を突きつけるにふさわしく、メディアによるおびただしい量の報道がなされたし、ひと頃よりその量は減ったものの現在も続いている。
メディアによる大量の報道がある一方で、一人の書き手による愚直とも言える地道な事実の積み重ねにより著された書籍での発言がある。メディアによる大量の報道があれば、それで十分に情報は事足りる。なのに、一人のノンフィクションの書き手の意見にぼくらは耳を傾ける。その書き手の発言に注目する。
それは何故か? 何故なのか? と問えば、あまりにも問題が大きくなるので、この場で論じる事ではない。でもちょっとだけ触れておきたい。
ぼく自身、ライターを生業としているのでわかるのだが、時には一切の予備知識もなく取材に向かうときもある。本来なら取材相手や対象に対して予備知識やそれなりの勉強はしたほうがいい。それを分かっていても、せずに向かう。その程度の取材対象でしかない、と言われればそれまでだが、それは「現場」の持つ強み、「現場」が語る強みを認識しているからだ。「現場」が読み手の注意を喚起するナニモノかを持っている。取材でそれが手に入る。それを書けば、それなりの原稿は仕上がる。
「ナニモノ」を分かりやすく別の言葉に置き換えれば「臨場感」とでもいえる。書き手にとっては強力なアピールに通じ、現場の匂いは読者を惹きつける。現場は、いわばその書き手だけが提供できる、限定的な地域特産品にもふさわしい「情報」とも言える。
ところで「臨場感」はメディアの報道も伝えてくれる。そして特に大きなメディアは量も多い。なのに何故?
違いがある、いくつかの違いが。たとえば「主語」の有無。メディアが取材して伝えてくれる。でもそこには「主語が不在」だ。大手のメディアが報じる内容はどこも画一的で同じ。A社の報道内容をB社に置き換えても同じ。顔のないのっぺりした報道でしかない。
その点、ノンフィクションの書き手には「顔がある」。その顔が何を語るか、現場をどう解釈したか。そこには書き手の明かな「主語」が存在する。現場を、臨場感をどう掘り下げてより深い次元でどう解釈したか。切り込みかた、掘り下げた内容、何を感じて何を伝えるべきか。そこには間違いなく「わたくし」が存在する。主語が存在する。たしかな伝え手が存在する。
原発を取材して佐野が耳にする「原発労働者は誇りを持てない」というフレーズ。
佐野が語る。エネルギー産業を時間軸や歴史軸のなかでも捉えてみる。
「同じエネルギー産業での炭坑からは歌や物語が生まれたのに、原発はそうではない。それが原発とは何かを端的に物語っているのではないか」
さらに、「日本人は原発について真剣に考えてこなかった。高度経済成長から続く知的怠慢だと思う」
「(原発の)システムさえ動かせば元通りになると思うのは問題だ。我々はこれまでたどってきたのと違う道も模索すべきだ」
こういう「わたくし」の存在する発言は、事実の積み重ねに依ったものだから重く説得力がある。もちろん、こうした発言を支えるのは事実の積み重ねだけではない。前後左右、上と下、まさに変幻自在の360度の視点を働かせてのものではあれど、それはやはり書き手独自の幅広い豊かな知見に裏付けられている。
一見関係もないような文学だったり哲学だったり、書き手の専門領域があれば、その分野から派生する幅広い学問的な知識もそうで、それ等をひもとくことに苦痛を感じない精神が要求される。そしてそれにはある一定量とでもいうか、ある反応をもたらすのに最低限これだけは要るという閾値(しきち)とでもいうべきあるレベルが存在するのかもしれない。それを超えるとまさに化学反応の如く、自由自在の視点がはばたく。
