2010年12月26日(日)
このところ日経の日曜版に「忘れがたき文士たち」と題したコラムが、日経の浦田憲治という編集委員によって編まれている。
瀬戸内寂聴が体調を崩したためのピンチヒッターというわけだが、瀬戸内の「奇縁まんだら」とはまた違った、新聞社の文芸部記者として作家との付き合いの中で垣間見てきた物故したそれぞれの作家の特質をよくあらわした横顔が面白く綴ってある。
代打での登場は今回の6回目で終わりのようだが、今日の日経には故日野啓三が採りあげられていた。ぼくの好きな作家だ。特に文章が好みにマッチした。日野の作品を手にする機会は最近は失せてしまったが、彼が作品を書いていた頃はほとんどの作品を読んでいた。
日野は1990年に還暦を迎えている。90年代はガンで入退院を繰り返しつつ、そのなかで作品を書いていた。80年代、90年代と彼の作品に接してきて、その作品世界がガラリと変わったことをよく覚えている。
日野の作品世界は二度変わっている。二度と言うことは、作品世界が三つあるということで、70年代中期に私小説的な雰囲気の作品で登場して以来、80年代には「虚構性の強いシュールレアリズム」的な手法の作品で文壇を小気味よく疾走していた。
『夢の島』という作品だったか、今では(東京湾の)「埋め立て地」などという呼称はまず用いなくなったが、「夢の島」というタイトルそのものも、かつては東京湾のゴミの埋め立て地の呼び名だったし、今年もあと数日後にひらかれる年末と真夏に東京ビッグサイトで催されているコミケ(コミックマーケット)をぼくが知ったのもこの作品でだった。
中高生のような若者たちが群れを成して大変な数押しかけている同人誌のマーケットなのだということは、その後のアニメやマンガなどの一大ブレイクで、世間にも知られるようになったが、当時はまだ世間的には知られていなかったはずだ。イベント周辺での仕事もしていたぼくですら知らなかったのだから、余計にそのことを覚えている。
90年代は、新聞によれば「生と死の極限の世界」を「恐ろしくリアルな知覚」で凝視する作品を書きつづけたとある。「リアルな知覚」とのことだが、この感覚は70年代の初期の作品から既にこの作家特有のものだった。リアルな知覚で描写した文章は、事物の細部が(たとえば、タタミのひとつひとつの網目が、目の前に表示されてでもいるように)まるで手に取るように街並みや空間が表現されていて、その知覚の表現世界に酔いしれたものだった。
日野啓三のことはこれぐらいにして、たまたま今、読みかけの時代小説『花と火の帝』を編んだ作家にやはり物故した隆慶一郎がいる。浦田編集委員は隆慶一郎も採りあげている。
60歳で作家デビューし、『吉原御免状』『影武者徳川家康』などのヒット作を次々とものして、わずか6年で逝った時代物の人気作家である。
シナリオ作家としても一流だったのは知られているし、作品の核にフランス文学への深い造詣があったということも同様に知られている。それに歴史家の故網野善彦の研究を取り入れての作品世界だったことも。しかし、何故60歳でのデビューだったのかは知られていない(賞を逸したが、デビュー作『吉原御免状』が直木賞候補だった)。
デビューして早々、既に巨匠の風格をかもしていたとして知られる隆という作家の秘密だ。
小林秀雄だった。
小林秀雄は隆慶一郎の師匠でもあった。隆にとっては「おっそろしく、怖い怖い師匠だった」とのこと。「先生の眼が恐ろしかった。しかられるのがこわかった」
隆に拠る小林秀雄の人物像はこうだ。「それはもう、恐ろしかった。あれは論争なんてものじゃない。大の男がオイオイと泣くまで攻め続ける。はては殴り倒すんだ。あの中村光夫(文芸評論家)さんだって殴られていた」
若くして小林秀雄の知遇を得てしまい、「小説を書いて、この恐ろしい師匠に叱られる度胸があるはずはなかった」と東大仏文の先輩だった中村真一郎の言葉を浦田編集員は紹介している。
中村のこの言葉の意味はよく理解できる。小林に罵倒されたら、以後書けなくなるのは知遇を得ていれば、いやでも分かる。
小説は書きたかったが、シナリオ作家として畏敬する小林秀雄の呪縛のなかで生きてきたということだ。『吉原御免状』が連載されたのは、小林が亡くなった翌年のことだった。
このところ日経の日曜版に「忘れがたき文士たち」と題したコラムが、日経の浦田憲治という編集委員によって編まれている。
瀬戸内寂聴が体調を崩したためのピンチヒッターというわけだが、瀬戸内の「奇縁まんだら」とはまた違った、新聞社の文芸部記者として作家との付き合いの中で垣間見てきた物故したそれぞれの作家の特質をよくあらわした横顔が面白く綴ってある。
代打での登場は今回の6回目で終わりのようだが、今日の日経には故日野啓三が採りあげられていた。ぼくの好きな作家だ。特に文章が好みにマッチした。日野の作品を手にする機会は最近は失せてしまったが、彼が作品を書いていた頃はほとんどの作品を読んでいた。
日野は1990年に還暦を迎えている。90年代はガンで入退院を繰り返しつつ、そのなかで作品を書いていた。80年代、90年代と彼の作品に接してきて、その作品世界がガラリと変わったことをよく覚えている。
日野の作品世界は二度変わっている。二度と言うことは、作品世界が三つあるということで、70年代中期に私小説的な雰囲気の作品で登場して以来、80年代には「虚構性の強いシュールレアリズム」的な手法の作品で文壇を小気味よく疾走していた。
『夢の島』という作品だったか、今では(東京湾の)「埋め立て地」などという呼称はまず用いなくなったが、「夢の島」というタイトルそのものも、かつては東京湾のゴミの埋め立て地の呼び名だったし、今年もあと数日後にひらかれる年末と真夏に東京ビッグサイトで催されているコミケ(コミックマーケット)をぼくが知ったのもこの作品でだった。
中高生のような若者たちが群れを成して大変な数押しかけている同人誌のマーケットなのだということは、その後のアニメやマンガなどの一大ブレイクで、世間にも知られるようになったが、当時はまだ世間的には知られていなかったはずだ。イベント周辺での仕事もしていたぼくですら知らなかったのだから、余計にそのことを覚えている。
90年代は、新聞によれば「生と死の極限の世界」を「恐ろしくリアルな知覚」で凝視する作品を書きつづけたとある。「リアルな知覚」とのことだが、この感覚は70年代の初期の作品から既にこの作家特有のものだった。リアルな知覚で描写した文章は、事物の細部が(たとえば、タタミのひとつひとつの網目が、目の前に表示されてでもいるように)まるで手に取るように街並みや空間が表現されていて、その知覚の表現世界に酔いしれたものだった。
日野啓三のことはこれぐらいにして、たまたま今、読みかけの時代小説『花と火の帝』を編んだ作家にやはり物故した隆慶一郎がいる。浦田編集委員は隆慶一郎も採りあげている。
60歳で作家デビューし、『吉原御免状』『影武者徳川家康』などのヒット作を次々とものして、わずか6年で逝った時代物の人気作家である。
シナリオ作家としても一流だったのは知られているし、作品の核にフランス文学への深い造詣があったということも同様に知られている。それに歴史家の故網野善彦の研究を取り入れての作品世界だったことも。しかし、何故60歳でのデビューだったのかは知られていない(賞を逸したが、デビュー作『吉原御免状』が直木賞候補だった)。
デビューして早々、既に巨匠の風格をかもしていたとして知られる隆という作家の秘密だ。
小林秀雄だった。
小林秀雄は隆慶一郎の師匠でもあった。隆にとっては「おっそろしく、怖い怖い師匠だった」とのこと。「先生の眼が恐ろしかった。しかられるのがこわかった」
隆に拠る小林秀雄の人物像はこうだ。「それはもう、恐ろしかった。あれは論争なんてものじゃない。大の男がオイオイと泣くまで攻め続ける。はては殴り倒すんだ。あの中村光夫(文芸評論家)さんだって殴られていた」
若くして小林秀雄の知遇を得てしまい、「小説を書いて、この恐ろしい師匠に叱られる度胸があるはずはなかった」と東大仏文の先輩だった中村真一郎の言葉を浦田編集員は紹介している。
中村のこの言葉の意味はよく理解できる。小林に罵倒されたら、以後書けなくなるのは知遇を得ていれば、いやでも分かる。
小説は書きたかったが、シナリオ作家として畏敬する小林秀雄の呪縛のなかで生きてきたということだ。『吉原御免状』が連載されたのは、小林が亡くなった翌年のことだった。