玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

November 2010

意表衝く運営で「行列のできる教室」に! 人集めのブレーク・スルー


意表衝く運営で「行列のできる教室」に!

人集めのブレーク・スルー



どんな分野であれ、人を集めたり行列をつくったりしていると聞けば、誰もが関心を示すのは世の常。それが通常のビジネスと縁遠い世界だとなれば、ぼくなどはなおさら興味を覚える。当事者でない分だけ却って冷静に物事が見えるから、ならばそれをビジネスや自分の分野に応用すれば、どういうことになるか、などと頭を回転させてしまう。


音楽教室を開いている知人がいて、彼女が自分のホームページで言っていたこのご時世に生徒が100人もいて、しかも入会を待っている生徒の行列ができている音楽教室がある、と。


そうした音楽教室は自宅レッスンレベルの教室とのことだが、それにしても「どうしてそこまで人気があるのか」と知人は一驚しつつ、具体的に3つの事例に触れていた。


音楽教室といえば、その基本は「教育」であり、本来ならより“高み”を目指して学ぶことが通常の考え方で、ビジネスには馴染まない。
というのは建前で、今や大学すら教育ビジネスと化しているが、そこまで触れると話しがややこしくなってくるので、とりあえず先鋭的な教育ビジネスとして思い浮かぶのはもっと一般的な予備校であり英会話教室などとしておこう。


そして予備校であれ英会話教室であれ、なんどもいうがそこでは学ぶことが第一義で、より高いレベルに挑んで学習することになる。音楽教室もこれと同じで、たとえばピアノが引けるようになりたい、ピアノがうまくなりたい、将来音大に進みたい、音楽で身を立てたい等々、そこにある志向は趣味であれ、何であれ、より高いレベルの音楽に通じることにある。


で、その高みに通じるということを否定したらどういうことになるのか。あっさりと結論を先に述べてしまうが、否定したら(子どもたち向けの)音楽教室の生徒があつまった、というのである。


知人によればその3つは次のようなスタイルの教室だという。


一つ目は生徒が手ぶらできて、手ぶらで帰れる教室とのことで、次のレッスンまでの宿題もない。ピアノの教本も五線帳も持参しなくてよく、生徒の教本、教材はすべて教室であずかり、生徒の自宅にピアノなどの楽器がなくてもかまわないというスタイル。


要するに一曲引けるようになるまで半年掛かってもそういうことは気にせず、宿題の負担もなく気軽に音楽教室に通えるということで、生徒に人気の教室とのことだ。


二つ目は音楽教室であっても実態は「学童保育」のようなスタイル。音楽もおしえるが、他の教科の宿題も教え、親が仕事帰りに向かえにくるまで、ずっといていいという教室。親にしてみれば、ピアノを教わり、そのまま教室にいて学習塾も兼ねていて安心だから、入会希望者がまさに順番待ちの状態だという。


三つ目。これは従来のピアノ教室とは違って学校の音楽の授業のための教室らしい。ピアノも教えるが、ハーモニカやリコーダー(縦笛)などを持参すると、それらが吹けるように教えてくれて、音楽の教科書やペーパーテストなどについても解説してくれ、模擬テストなどもしてくれるとのこと。


つまり音楽の「授業対策版」の教室と知人は言っている。子どもたちに音楽を習ううえで実感として「これができたらと、達成感を感じるのは何か?」と問えば、絞り込まれて子どもたちの誰にも通じる共通項としてこのような対策版が出てくるのではないだろうか、とのこと。


不思議なのは、それだけ人気があるにもかかわらず、こうした教室に追随する教室が次々出てきていないということ。


知人はこの音楽教室のことを知ったとき、プロモーションとしては想像し得るが、まさか現実に実践されているとは、と大変驚いたと言っている。そして要約するが、教育の徹底化ではなく、教育の「お手軽レベル」の徹底化であり、子どもたちを顧客第一主義に照らして徹底すれば、そういうことになるのだろう、とも。


知人は、これらの音楽教室についての現象をかなり掘り下げた知見を示して分析しているが、それを紹介するのがここでの目的ではないので知人についてはこれぐらいで措く。


とまれ、マーケティング手法をとりいれるまでもなくこれらの音楽教室のポジションは明白だが、おそらく音楽教室の先生たちが追随しないのは、かりそめにも、音楽教室は「教育」との矜持があるからだろう。ビジネス次元では割り切れない。割り切れないから知人が驚くのだし、行列ができているということだろう。


それに、ビジネス次元では割り切れないと言ったが、ビジネス次元ではなく経済的にも割り切れない現実がある。たとえば二番目の学童保育のスタイルだと実際にはそれなりのスペースがなければ運営が難しいから即経済的な問題に直結するし、他の教科も教えるとなると、果たして音楽の先生だけで間に合うのかどうかなど……、いろいろと現実の問題が浮上してくる。


また、そういうスタイルは一時的な人気かもしれない。やはり高みを目指した教え方なり指導なりがいいとなったら、一度ついたゆるい学びのスタイルの看板はなかなか外れない。門外漢のぼくにはこれぐらいしかネガティブなイメージは浮かばないが、おそらく現場にはもっと様々な問題もあるはずだ。となると、おいそれとは追随できない。


ただしこの行列のできる音楽教室の現象をビジネス的視点でとらえれば、浮上する問題はある程度クリアできるだろうから、ビジネス上の採算は合うはずだとはじき出せるのではないだろうか、などと考えるひともいるのでは。


知人には申し訳ないが、ぼくなどはそのビジネス的視点でこの音楽教室のあり方を考えてしまった口だ。ゼロベースで思考すれば、まだまだビジネス的には成功はありうる世界のようだ。


行列のできる音楽教室になったのには、おそらく現場での何らかの事情やプロセスがあってのことで、最初からそのようなスタイルの音楽教室でスタートしたのではなかったのではないかと思える。


とまれ、現場での実際はどうだったのかは知らないけど、ビジネス的思考でみれば、この行列のできる音楽教室にはビジネスとしてのテーマがそこには存在している。高みの音楽教室ではなく、これまで相手にしなかった生徒たちを対象とした、いわば「だれでも音楽教室」というテーマでの敷居を低くしてしまったところに。

さらにはあらゆるビジネスに言えるが、「既存の枠組みを脱した発想」というか、出来そうで出来ない難しいブレークスルーがそこには存在する。まさにゼロベース、常識の発想をくつがえしている。高みを目指すのが当たり前であり、ピアノや鍵盤楽器のない家の子にピアノを教えるなど、まず発想できるものではない。


ぼくに小金があったら、早速この話しでビジネスを考えてみるが、それはともかく、ビジネスには馴染まない教育の場ですら、ある種の解体現象が起きているということだ。ビジネス志向、ベンチャー志向ということなら、それなりにこの話から得られるヒントは小さくはない。



2010年11月29日(月)



苦戦するアニメなどのコンテンツ産業を嫌でも思わせるキャラクターショー

2010年11月21日(日)

先ほど出向いたイトーヨーカドーの武蔵境店(武蔵野市)で、平成の「仮面ライダーショー」をやっていた。子どもたちの歓声につつまれながら、しばしの間ショーを見るともなく見ていた。会場は店舗に隣接した公園空き地である。シートが敷かれた会場は子どもたちとその親たちで埋まっていた。

ヨーカドーの武蔵境店は今、開店10周年の記念祭を開催中だ。店舗そのものは10年以上前から営業しているはずで、以前はビル一つだけだったから二つのビルでリニューアル営業するようになってから10周年という事だろう。

ところでこの武蔵境店はグループの旗艦店という位置づけらしい。おそらくセブン&アイ・ホールディングスの総帥、鈴木敏文会長が武蔵野市民だから、地元の要望と彼の肝いりでリニューアルしそういう位置づけとなったのかもしれない。

ところで仮面ライダーショーだが、平成版ということでショーには平成の5人のそれぞれのライダーが一緒に登場していた。以前ならこの手のショーには正義の味方であるライダーの登場は1人のはずだったのでは――それが5人とは。この分野のみならずほかとも競合があり、ライダーの人気が陰りパワーが落ちているということか。

だいぶ以前だが、販促の専門誌の取材で仮面ライダーとウルトラマンを取材したことがある。今でもやっているのかどうかは分からないが、東京では夏になると必ずライダーとウルトラマンの大きな展示を兼ねたショーを1か月ぐらい続けてやっていた。

関係先ということでそのとき、東映やテレビ局やこうしたキャラクターショーを演じている会社や後楽園と池袋で開催されている展示ショーなども取材したことがある。

当時はもしかしたらキャラクターショーの絶頂期でもっとも人気を浴びていた時期だったかも知れない。なにしろライダーを演じる俳優がイケメンだということで、子どもたちより母親たちの方に人気があり、彼ら俳優の単独のショーがその母親たちで賑わっていた頃だからだ。

キャラクターショーを手掛けた最初の人物ということで東映のプロデューサーにも取材したが、彼に言わせれば、そのような人気はまさに隔世の感ということで、その人気に驚いていたことを思い出す。

スーパーのキャラクターショーでは扱っていないけれども、夏の展示ショーでは会場に併設されてフィギュアや模型などの販売があり、この販売額がなかなかのもので、これなら展示ショーは辞めるにやめられないとおもったものだった。

そしてキャラクターを送り出す企業側の仕掛や仕組み管理も併せて取材したが、その緻密なビジネスの仕組みに驚いたものだった。なるほど、「儲かるはずだワイ」とばかりに。

ただ今では、少子化や番組人気の陰りでおそらくフィギュアなどの売れ行きもかなり減少しているのではないか。これらライダーたちと同じような業界にアニメの業界があるが、こちらもかなり厳しい状況にあるようだ。

先週19日金曜日の日経にアニメ産業が発展かこのまますぼむのかの岐路に立っているという記事が出ていた。首都圏版に。

テレビ番組がかなり減少しており、06年のピーク時の約280本に比べると、09年には約2割減っているということで減少傾向にあり、ピーク時1000億円あった映像商品の出荷高がこのところ数十億円ずつおちており、ピーク時と比べると100億円ほど落ちた年度もあるという。

背景にはスポンサーの減少があるというのだが、複数のスポンサーに分散させる方式でも以前のようには集まらないのだという。

ぼくの住む多摩地域はまさにアニメ産業の集積地である。ぼくの家から自転車で10分ぐらいのところにあのスタジオジブリがあり、お隣の三鷹にはジブリ美術館があり、そのすぐ近くには、日経の取材に応じて、地場産業の「アニメが苦戦」と語った日本動画協会理事長がトップを勤めるアニメ制作会社ぴえろ(「NARUTO(ナルト)」を制作しているプロダクション)などもある。

お隣の杉並区は、アニメ関連産業を育てるという名の下に、アニメ関連の施設などに予算を投じていたが、市長が替わった途端、その予算が削られそうな状況にある。関連委員会の調査で、効果が期待できない、ということらしい。確かに、ぼくもそう思うが、とまれ、国内ではコンテンツ産業と持てはやされたのは今は昔、新たなビジネスモデルが築けなければ、このまま衰退してしまうしかない、厳しい状況にあるようだ。

判断力の低下と張りつめた状況の効用

11月15日(月)

案の定ハズレだった。
直感力というか、判断力というか、そういうものが鈍ってきている。ものごとに対する「読み」が鈍感になってきているのだ。

いや、それは正しくない。対象に対する「判断力」も「直感力」も鈍ってはいない。鈍っているように思うのは、直感したり判断したりしたにもかかわらず、その直感や判断に従うことなくそれを無視してしまう行動のあり方にある。結果、その直感や判断が予想したとおりにマイナスとなって作用したり失態を招いたりすることになる。そんなことがこのところ立て続けにおきている。

それは行動に対する細心さがルーズになっている、ずぼらになっているということだが、おそらく普段の生活にその元凶がある。その元凶は何かというと、ある種の緊張関係が日常生活にほとんど無くなっていることにあるのではないかと思う。

顧みると、重要な決断を次々に迫られるような機会が減っているし、緊迫した状況に身をおいて仕事をしていないからかもしれない。

もちろんそれは年の功で困難を切り抜ける術に習熟していたり、経験則で乗り切れたりという意識しない見えない力が働いているからだが、それにしても、ピンと張りつめた機会の喪失がこうも細心さの乱れを呼ぶとは思いもしなかった。

良いように解釈すればそれは鷹揚さとも受けとれるが、一方ではそれでマイナスの側面を呼び、あるいは手痛い手落ちに至っている。

冒頭のハズレとは、2か月前に購入したメガネのことだ。2、3日前、メガネを買った店舗に出向いてメガネの掛け心地の具合をなおして貰った。フレームの耳の後のところが多少きついので、ゆるめてもらったのだ。

それがひどい。まるで素人同然の調整で、買って2か月のメガネを傷物にされたような気分に陥っている。

それまで良い買い物だったと思って愛着を抱いていたメガネに対する印象がすっかり変わってしまい、いじけた駄々っ子よろしく「こんなメガネ、ぼくのものじゃないやい」という心境にある。

9月にパソコン用のメガネとして買ったメガネだった。決算期のセールということで、たまたまある眼鏡店の店舗に入った。

半額だったので衝動買いだった。チタン合金のフレームは1万5000円ちょっとで半額の価格表示。普段ならその倍の値段だし、それにレンズがつくからそれなりの売値になる。それがレンズ込みでの値段というから、迷うことなく即決購入した。

その眼鏡店は大きなショッピングセンターにはいっていて、世間的にも知名度があり業界でも名のある眼鏡店である。

ぼくが調整に赴いたとき、店には店員が3人いた。40歳ぐらいの男性店員が1人、それに若い女性店員が1人、いずれも接客中だった。残るは、40代後半とおぼしい女性店員。オバサンだが、メガネが似合って品のよさそうな感じでいかにも眼鏡店の店員にふさわしいような人で、カウンターの向こうに正面を向いて立っていた。

そのオバサンを認めたとき、思ったのだ。もし今店舗に入れば、ぼくへの接客はまちがいなくそのオバサンになる。そして何故か、ぼくの脳裏を不安感が走った。
「このオバサンでだいじょうぶだろうか?」

他の二人の店員と比べて、なんとなくパートの店員ではないかという頼りなげな感じを覚えたのだ。意味もなく直感的に。

もちろん、今時のパートは企業によっては多大な戦力になっている。社員と同じような、あるいは社員以上の働きをしている例はたくさんあるから、ぼくもパートだからといって否定するわけではない。ないけれど、そのオバサンに対してはマイナスの直感力が働いた。それはその店舗に対するぼくのこれまでの接触の経緯があり(その店からメガネを買ったことはないが、気が向くと店舗を覗く)、そこから総合的に判断してマイナスの直感力がはたらいたのだろうと思う。

その判断はまちがってはいなかった。そのオバサンは素人同然の店員といってもよかった。ぼくのチタン合金のメガネフレームが、強引に曲げられてしまったのだ。それも曲げなくても良い両頬のうえに当たる箇所を強引に外側に拡げて曲げられてしまったのだ。

通常、掛け心地の調整にはそれほど時間が掛かるはずがない。にもかかわらず5分以上の時間が掛かった(もっとかな)。そこでまず不安を覚えた。時間が掛かりすぎる。時間が掛かりすぎているということは、慎重というよりも技がなく、技巧が下手だということだ。そうぼくは判断を下した。

時間が掛かったはずだ。曲げなくてもいいチタン合金の丈夫なフレームを思いきり曲げて拡げていたのだから。

ハイできました、と渡されて受けとったメガネは掛けるとき違和感があった。両頬の上あたりのフレームの箇所が拡がった感じがしたからだ。そしてそこは確かに拡がっていた。その箇所をいじる必要はまったくないのにもかかわらず。

文句は言わなかった。それより店頭だから、細部までみているようなゆとりはない。まずはゆるくなっていたが、それでももうすこしゆるめてほしかったので、再度メガネをはずして渡した。

今度は早かった。いや、それが普通だ。ぼくの指摘した耳の後の箇所を調整するだけならさほどの時間は掛からないはずだから。で、それを受けとってきた。耳のうしろのきついのは確かに直っていた。

でも家にもどって何度も掛け直し、メガネのフレームをひっくり返すなどして見たら、上述したように、拡げる必要がない箇所が強引に曲げられて多少いびつに拡がっていて、それが素人目にもはっきりとわかり、何か痛々しく思えてきた。

案の定ハズレだったのだ。どうしてあのとき店舗に入ってしまったのか、という後悔がある。入らずに一旦、時間を潰してから入ればよかった、と思うのは後の祭りだ。

同じように、仕事でも言葉を交わしていて、相手のマイナスになるようなことをいわなければ良いのに、そしてそのことを頭では分かっているのに、つい口に出してしまう。そういうことがメガネのケースと同様にこのところ続いている。

元凶はと上述したが、要はその元凶というものが、年齢ということかもしれない。そしてそれこそが直感力や判断力の低下であるといわれれば、それまでで打つ手はないのだが……。

でも、あるはずだ。張りつめた時間を持つことだ。数日前の新聞に出ていた。50歳を過ぎた詩人だと思ったが、そのひとは都内でもトップクラスの厳しさで知られる英会話および英語に関する学校があり、そこに通い続けている事が書いてあった。

はいるときに幾度も念を押されるらしい。うちは厳しいから、そのつもりで。そしてついてこれますか等々。なんでも宿題が山とあり、その量たるや半端ではないらしい。

授業についていこうと思ったら、それまでの日常生活が影響を受け、すっかり変わってしまうというのだ、その宿題のために。クラスの人たちはその課題をしっかりこなしているという。そしてこなさないと授業について行けないのだという。それだけでも如何に厳しいスクールなのかが伝わってきた。

苦労はしたものの、効果は3か月経過してあらわれたという。それは英会話を学ぶことのみならず、頭の回転がすっかり変わって旧に復したというのだ。

そう、直感力や判断力、それに物忘れなどが年齢のせいでにぶっており、それは仕方のないものだと諦めていたのが、そうではなく、そういう能力も一気に活性化し出したというのだ。なるほど、身を楽なところに置くのもそれはそれで必要だが、身を、精神を雨風に晒して痛めつけるというのもやはり必要なことのようだ。身を、精神を痛めつける効用を何で試そうか、といま考えている。

書籍の「デジタル化」が、意味するものとは

2010年11月2日(火)

ふむ、考えている人は考えている。

前回のブログでぼくは、書物に棒線をひきまくり、仕事用の資料にする云々、と記した。で、書物がすべてデジタル化されたら困るなどとも口走った。それは、デジタル化がどのような意味をもつのかなどまったく調べもせず、また考えもせず、現状のぼくの姿を単に述べただけのものだった。

その前回のブログをアップした3日後、つまり10月31日の日経日曜版の読書欄に、黒崎政男という哲学者が、「書籍と、書籍のデジタル化についての違い」と、さらに「その違いとは何を意味するのか」について、コラム欄で簡潔明瞭に述べていた。なかなかの説得力。

考えることが仕事の哲学者とはいえ、その文章量に比して、黒崎氏が述べている内容には読み手を首肯させる確かな言葉があり、「書籍の電子化」について重要な一つの知見をしめすものだった。

「書籍の電子化」については、いま誰もが興味を示すだろうから、「その意味するもの」について簡潔に言及しつつ、きっちり整理されまとまっているので、哲学者にしてはなんか詳しいと思い、このひとはナニモノとばかりにググッてみた。

そしたら東京女子大の哲学科の先生で専門はカント。そして、カント哲学研究の他に、人工知能と電子メディア論も研究テーマだとしって、納得した。(書籍の電子化について)語るべき内容と語るべき言葉を持っている人物だと。だからこその簡潔明瞭だったのだ、と。

先生曰く。「そもそも情報の電子化、つまりデジタル化とは、情報が脱=物質化することだ」と。
「はあ?」である。でもその後を読むと意味が分かった。

「写真は印刷やフィルムという〈モノ〉から解放され、電子情報となり、レコードやCDなどのモノに載っていた音楽も今や(デジタルの)mp3ファイルとなった」

で、「書物も紙という〈物質〉から離れ、すべてが電子化されるのだろうか」と、(遊び心でひとまず分かり切った)疑問を投げつつ、読むという行為は一定の時間を必用としており、「読み手が見て触れる」書物という物質に対して「接触面」としての意味の重要性は、音や写真に比べて「格段に高い」と述べている。

そしてもう一つ重要なのは、「紙でできた書籍がインタフェースという意味では、完成され尽くしたメディアだ」という指摘だ。その上で、「電子ブックはどこまで紙の本に迫れるのか」という命題をつぶやく。

既にもう両者の優劣の答えはでているのだ。ただし利便性や使い勝手の優劣からいえば、電子ブックの「情報の内容」によると、先生は言っている。

これはぼくらも日々体験していることで容易に理解できることだが、電子ブックの情報には二つの種類がある、と語る。

一つは検索して使用する辞書類や、日々のアップデートが必要な「変化が身上」の情報などのことで、それらは早晩デジタルが支配するだろうとのこと。

もう一つは、小説などの作品や著作で、これらは「完成された後の変化を嫌い」紙に印字され、永遠に固定されるべきだと語る。

書籍の電子化は20年以上前から行われており、『聖書』から『走れメロス』に至るまで、名作がネット上に存在するという。しかしそれらは検索でデータベースとして使用されることはあっても、(読まれることがないので)紙の媒体を駆逐するようなことはこれっぽっちもない、と。

「これらの書籍は燃えてなくなり朽ち果てるまで同一であり、絶対に変化しない」のだという信頼感、つまり印字された「モノ」に対する信頼感というわけだが、それについて電子化は「流動性とともにあり」、その意味で、「この安定感を欠く」という。

で、結論として本の世界はデジタル化の結果、「紙を駆逐してしまうもの」「紙が優位で残るもの」「中間的なもの」にはっきり分かれていくだろうと語る。

そうした上で黒崎先生曰く。「本を全部ディスプレイで読むのかと想像すると、かなり絶望感に襲われる」と。そして自分がカントの『純粋理性批判』をデジタルで読む可能性は99%ないと。

そして3つに分かれる表面的な結論とは別に、「もし紙の書籍がこの世からなくなるときは、大方の文学や思想も同時に消え去っている時だろう」と本質的な結論を述べて文を結んでいる。

なるほど、書物にメチャクチャに線を引く、書物とぼくとのインターフェイスを考えると、文学や思想の次元とは異なるものの、それなりに書物という印字メディアとの確かな関係性の中で書物が持つ本質的なところ(書物がこの世からなくなれば、文学も思想も消え去るということと同じように、書物がもっている意味のところ)でつながっており、それで仕事が出来ているという実感を強くした次第……。
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