玉川上水(武蔵野市)の事務所から…

ライターの仁です。企業広報分野でIR(Investor Relations)などの仕事をしています。折々の、あることないことで、気にとまったことを発信します。

November 2009

三鷹「SOHOフェスタ」の会場で思う…

2009年11月21日(土)

■ぼくは、対外的には個人事務所として仕事をしている。いわゆるSOHOで言うところのスモールオフィスである。今日(21日)の午後、三鷹市や三鷹のまちづくり会社が主催する小さな展示会「SOHOフェスタin MITAKA」の会場をのぞいた。今年で12回目になる。

■この展示会もやはり、金融危機の影響だろうか、以前はもうすこし規模がおおきかったはずだが、今回は今日の午後だけの、つまり半日(正午〜午後5時)だけの開催である。出展社も招待展示やお付き合いの企業展示を含めても40(実質30強かな)数社というところだ――展示スペースも、いわゆる国内の一流の展示スペースを持つ展示会場で開催されるような展示会とはちがって、各ブースの規模も横長テーブルを用いた素朴で小さな展示空間である。また展示会も、SOHOを謳っているし、市内周辺の来場者が対象だろうから、それでいいのだが。

■三鷹市はなんでもITを活用したSOHOやコミュニティ・ビジネスのモデル事業地区になっているらしく、SOHOのパイロットオフィスの開設やインキュベーション施設などを設けてSOHOの事業者を育てている。国からは資金などの面でも支援があるのだろう。ぼくは直接的には何の縁もないけど、近所なので、はたで見ている限りは活発な活動をおこなっているようだ。

■ただ今回の展示会の様子をみると、半日の展示会だし、来場者を相手にする展示というビジネス的な視点からみると、もうひとつ展示会としてのメリットの面では弱いのではないかと思った次第。で、12回目の開催だし、それに規模が小さくなったということで、来場者目当ての展示会というよりはむしろ、展示会の関係者や参加者の親睦に重きをおいた展示会としての流れになってしまっているのではないか、とも思った。

■それって、かつてのどこかの業界の大きな展示会と同じような、悪しき流れを受けついでしまっているのではないのか。ビジネス主体より業界の親睦主体の展示会になりはててしまっているという。

■展示会ビジネスは盛況だが、それでも年に一度の業界のお祭りだったり、業界の親睦に主体を置いた展示会だったりした場合は、ほとんどが良い結果を生んではいない。何よりも来場者数を大幅に水増しして開催するなどがつづいて、これではいかんと、危機感を抱いたときはすでに遅かった。例えば、展示会の主催者が集まった日本展示会協会だったかが、その対策であたふたしている間に、日本の展示会はアジア各国の展示会競争に乗り遅れてしまうことになった。

■まあ、国内の代表的な展示会や見本市と、三鷹の周辺地域を相手にした小さなSOHO展示会を較べても意味はないが、それでもそういう流れになっているようなだと思った次第。

■もっとも、この三鷹のSOHO活動は、展示会も含めて地元の横のネットワークに主眼を置いた活動がメインだろうし、そこから事業として各SOHOが独り立ちできればそれで活動自体にも意味があるのだろうから、むしろ親睦が主体であっていいのだろうと思ったりもする。それにちいさな事務所で仕事を始めて、同じ地域に同じような人たちの横のつながりがあるっていうのはとても心づよいものがあるだろうから。

■ただ仲間内で、支援資金を活かした活動に偏した展示会というのであれば、それではいけないのではないか。早い話し、もし民間のビジネスとしての展示会なら採算が合わなければ、即中止になる。なってしまう。出展社がすくなく、来場者もすくないというのなら、展示会開催の意味もない。にもかかわらず開催できるのは、やはり公的な資金援助があるからか。だとしたら、それって恵まれているけど違うのではないか。ビジネスとしての緊張感が欠けている。緊張感のないものは、箪なる形骸化しか生みださない。そして形骸化した展示会は展示会の意味をなさない。

■そのあたりのことは傍で見ているだけだからわからないけど、またぼくの憶測の域を出ないけど、半日での開催規模といい、(ぼくは1時間ちょっといただけだが)会場の様子といい、果たして展示会としてのビジネス的観点からいえば、あまりうまみがあるようには思えないのだが、どうなのだろうか。フェスタの名の通り、お祭りだからそれでいいのか。

■まあ、SOHOを任じるぼくのひがみでしかないが、この不況の最中、採算を無視しても支援で何とか展示会が開かれるというのは、関係者や関係SOHOにとっては、とてもありがたいことでもあるのだろう。それに三鷹市が中心になって開いているので公的な意味も持っているのだろうから、それはそれとして非難できるものではない。なんというか、単なる一個人事務所を運営する身としては、この不況下、なんだか、とってもうらやましいことだと思った次第。



江戸時代の「借金棒引き」令と、鳩山政権の「事業仕分け」

2009年11月11日(水

■1789年と言えば、フランス革命の年だ。そしてアメリカではこの年、ワシントンが初代大統領に就任している。同じ年に日本では何があったか。棄捐(きえん)令が発布されている。

■棄捐令といっても、よほど歴史に強いひとでないとおそらくわからないだろうが、せんじ詰めて言えば「借金を棒引きにしろ」という法令のことだ。松平定信の「寛政の改革」がおこなわれていた当時である。

■御政道を担っていた徳川幕府が、札差への溜(た)まりに溜まった借金をもつ武士を救うために発している。それはこの年だけではなく、その後も江戸時代には幾度か発布されている。

■札差と武士との関係はテレビや映画でお馴染みだからわかるだろうが、武士は俸給の禄米(それも2年先3年先の米)を担保に札差から借金をしていた。これが年利18%の高利。借金の支払いに喘ぐ武士を救済すべく、幕府が発布したのだ。

■実はこの話の大元は今日の夕刊からの引用である。小説家の山本一力が日経の夕刊に連載していた小説が終了し、その小説について山本が寄稿した一文からだ。何でも小説の底に流れる主題がこの発布令なのだという。

■小説はまったく読んでいなかったが、当時の江戸庶民はこの御政道に大喝采したそうだ。ところが江戸の経済を支えていた要素の一つは、この札差たちの桁違いの金遣いなのだという。

■そして話しは現代の、まさに今に置き換わる。棄捐令の発布は札差の金遣いの荒さに眉をひそめる江戸庶民の喝采を浴びはしたが、不景気風が江戸に吹き荒れることになったとのこと。

■時あたかも今日のテレビのニュースは鳩山政権の「事業仕分け作業」の様子を映し出し、事業の廃止や見直しが続出している。今日の今日だから、そのニュースを目にして山本は言ったのではないだろうが、ここで山本は現政権をして、次のように言うのだ。

■「なにが無駄なのかは、一面だけでは判断できない。
官僚が自己(省庁)保身の目的で税金を恣意的に遣うのは、断じて許されない。
が、果たして無駄遣いだけなのか。そのカネが世の中に環流し、景気の下支えをしてはいなかったのか。
無駄撲滅に邁進した結果、さらなる不景気風にさらされることにならないのか。」
小説を書き終えていま、そうならないように切望していると結んでいる。

■うーむ、この発言だけど間違ってはいない。いないけど、総論各論でいえば総論としての見方の域を出ていない。そう、間違ってはいないけど一般論の域を出ていない。その実、切り込んでいるようで、切り込みが浅く意見としては弱い。説得力がない。棄捐令を通奏低音として小説を編んだ小説家の意見なら、もうすこし掘り下げて切り込んだ気の利いた意見が欲しい。

■話しの流れとして自分の編んだ小説から、結論に持ちこんだこの一文は確かに論理としてはつながっている。つながっているけど、結びとしては甘いのではなくゆるい。エッセイ風の一文と言ってしまえばそれまでだけど、小説家がどこまで考えてこの一文をものしかたかが、脱稿したかが、そう、腹の底がすけて見える原稿なのではないか(結末が)……。

■でもだね、小説家の本分はおもしろい小説を世の中に送り出すことにある。ならば、この一文に文句をつけて、あれこれ言うぼくがおかしいか。どっちだと思いますか、あなたは。


ダライ・ラマが愛媛の財閥系企業城下町・新居浜市に――そこには静謐なたたずまいの名刹、そして誰もが知る世界遺産候補がある


ダライ・ラマが

愛媛の財閥系企業城下町・新居浜市に――

そこには静謐なたたずまいの名刹、

そして誰もが知る世界遺産候補がある

マイントピア
別子銅山の遺構(住友の歴史はここから始まる)・新居浜市

2009年11月2日(月)


■今日2日のネット上のニュースを見ていたら、共同ニュースにダライ・ラマ14世が愛媛県新居浜市の名刹を訪れ、日本初のチベット式仏塔の開眼供養を行ったとある。

ダライ・ラマが四国を訪れるのも珍しいが(初めてとのことで、弘法大師と同じ密教からの縁のようだ)、この名刹は真言宗の萩生寺というお寺である。このお寺の本堂がおもしろい。


■おもしろいと言ったら語弊があるかも知れないけれど、チベットやネパールなどのお寺で見ることができる、マンガチックな大きな目玉が描かれていることで憶えのある、あの二つの大きな目玉が、このお寺の本堂の屋根から上に伸びたお堂のところに描かれていたのだ。

おそらく普通の日本人から見たら「何とも変わったお寺だろう」と思わずにはいられないし、このようなお寺が日本にあったことを初めて知った。


■ところでダライ・ラマはここではさておいて、新居浜市の寺だというので以前訪ねたことがある新居浜市のある寺のことを想いだしたのだ。

ところがその寺の名前が皆目わからない(忘れたのではなく、最初から知らないのだが)。で、上の萩生寺も含め新居浜市内のお寺をネットで当たっていたら、その寺が見つかった。


■その寺にはものの10分もいたかどうかのものだった。ところがどうやら禅宗らしいこのお寺で、丁度その時に見た情景があまりにも清々しかったので、ずっと記憶に残っていたのだ。


■大寺院というのでもないが、たまたまその時、まるで時代劇映画からでも抜け出てきたような禅宗の若い旅姿のお坊さんが、墨染めの衣と網代笠、それに背中に背負子を負い、木槌を手にして、寺に来たことを告げるため木片を何度か叩いていたのだ。
(このシーンでした。ぼくは目の前でおこなわれている、そのシーンに魅せられてしまいましたね)


■その時のその若い僧侶から感じたのは、なんとも落ち着いて清々しい凛とした物腰だった。
その姿がまるで一服の絵のように清浄な姿として伝わってきた。

京都の寺院でもそういうシーンは見たことがない。そして全身を僧衣に包んだ姿が、何ともききり(?)とした感じだったのだ。

実によく決まっていた。嫌みではなく。(こちらを見てください。ある方のブログですが、写真と共に、この寺のお坊さんの後ろ姿があまりにも美しい云々とあります。禅宗の修行を積んだらこうなるのだろう云々と)


■実を言うと、訳があってその寺を訪ねたのだが、ぼくはどうしてその寺を案内されたのか今日まで分からないでいた。

地元のひとに連れて行かれたのだ。地元のひとと言っても大きな企業のひとである。新居浜市をぼくは仕事で訪れたのだった。


■いわゆる西国の住人、つまり日本の西の方に住んでいるひとはどうかわからないが、東京のひとも含めて東国、つまり東に住んでいるひとは、新居浜市と言われても普通はあまりピンとこないのではないだろうか。

でも、誰もが実はこの街のことを、そう中学校のころだろう歴史で習っているはずなのだ(今はどうか知らないが)。


■実はこの新居浜市には別子銅山(今では旧別子銅山というのかな)があるのだ。
うろ覚えだが、昭和40年代まで銅を産出していたはずだ。

そして今日の住友グループ、いわゆる住友財閥の礎を築いたのはこの別子銅山なのだ。


■ぼくは新居浜市をはじめて訪れたそのとき、この街が四国一の工業都市であり、住友グループの企業城下町であることを知った。

ぼくが訪れたのは、そのグループ企業の仕事で訪れたのだ。
で、その企業人の案内の人がぼくを何故か知らないが、上述したお寺に連れて行ってくれたのである(旧別子銅山をはじめ、つまり山歩きも含め、関連施設を見学したのだ)。


■そのお寺は瑞応寺と言う禅宗の寺で、禅の専門僧堂がある。
写真にあった山門(あたらしいが)や階段はまったく覚えがないので最初違う寺かと思ったが、何でも別子銅山の関係者が葬られていると、先ほどネットで知った。

だから案内のひとはぼくをここに連れて行ってくれたのだ。
それが今、分かった。実はこのお寺に当然車で案内されたのだが、その前に数時間、旧別子のお山を歩いているのである(旧施設跡の見学)。
それでぼくは膝を痛めて、そのお寺を歩くのに、とてもしんどかったのだ。


■痛くて説明に耳を傾けるどころではなかったのだ。
だから、どうしてこのお寺を訪ねたのか、覚えていないということなのだ。

ダライ・ラマから四国の寺というので、そんなことを想いだした。
別子はもしかたら世界遺産の有望な候補になるかもしれない。








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