2007年11月28日(金曜日)
■今日発売になったニューズウィーク日本版(12月5日号)に、お寒い文化大国日本の本質がまさにえぐられ、露(あらわ)にされている記事があった。
指摘しているのはフィガロ紙の記者で、在日フランス商工会議所機関誌の編集長。
東京に続々と誕生する美術館。森美術館、サントリー美術館、国立新美術館……。これは日本人の美術にたいする深い感覚や情熱のある姿からだと思っていた、という。
ところが現実は、なんと貧弱きわまりないコレクションやお粗末な展示で、新しく生まれた施設が「美術館」を名乗るのは「詐欺に等しい」とこの上なく辛らつな指摘である。いや、「ニセモノ美術館があふれている」とまで言っている。
学芸員とは名ばかりで、その実ほかの誰かが選んだ作品を壁に掛けているだけだし、空間は空っぽだし、たいていは企画展専用の「ギャラリー」でしかない、と。
このあたりの指摘はまだまだ序の口で、短い一文のなかに、このあと次々と日本の文化や美術のお寒い現状をあばきだす。
■たとえばルーブル美術館だが、長くにわたって、国外最大の美術展を日本で開いているのには理由があるという。
どんな理由か。お金である。寄付の20%が日本からのものだから、とのこと。同じくポンピドーセンターが国立新美術館にコレクションを貸し出したのは、日本企業からの莫大な寄付があったから。
さらに日本では、芸術家は「ブランド」と見られているとも。「ピカソ・ブランド」であり、「シャガール・ブランド」であり……という具合に。
■そして次が重要だ。(美術館のひとつのあるべき姿です)
金による展示、ブランドの展示――「そこにはすぐれた美術館に必要なものが欠けている。それは、リスクを背負いながらも自らの視点を貫いて作品を選ぶ目、それがない」
そして、お手本として彼はマドリッドの美術館をあげている。
その美術館で体験できる中世から現代までの数世紀のアートの旅は、一人の男爵のコレクションであり、「数々の傑作が対話しており、見る者はそこに参加しているような感覚をいだく。情熱に満ちたコレクションのなかに、一人の男(男爵)の姿が見えてくる」と。
ではなぜ東京では、日本では、ニセモノ美術館があふれるのか。
答えは「不動産会社」だという。日本では、美術館などはたいてい大型の商業施設や高級マンションのそばに造られているという。
それは開発業者が、「文化」を持ち出すことで、「無用なもの(施設)を造る理由になる」からだという。
そして彼はある著名な日本人指揮者が自分にこう言ったとして――。
「パリのコンサートホールはたいしたことはないが、プログラムは素晴らしい。日本のホールは世界でも指折りだが、演目は最低だ」
なぜそうなるのか。
「音楽と違って、建物は目に見える。日本ではそこが重要なんだ」
編集長は言う。
「芸術を愛するふりをしながら、自分では価値判断をしない日本人の二面性」
前述のポンピドーセンターは今、東京にオフィスの設立を計っているとのこと。目的は日本の現代美術の収集である。
「本来なら日本の美術館がやるべきことだ」と編集長。どうやら日本は国の防衛だけではなく、文化まで外国に依存していると結んでいる。
■フランス人の目から見ると、そういうことになるのででしょう。お説ごもっともで、日本人としては恥ずかしいが、でも、すべてがこの編集長氏の言う通りではない。中には独自の企画展などを展開している美術施設もある。
たとえば東京都現代美術館、地方だと水戸芸術館や広島市現代美術館などは特別な企画展などを開いているし、その企画内容もユニークで面白い(私が知る限りだが。どちらかというと現代美術の分野での活動が中心のようだ)。
ただし、残念ながら、それは一部でしかない。現実はやはり箱ものを造るための大きな理由に文化や美術が利用されているのが今の日本といってよいだろう。
「価値判断をしない二面性」とあったが、実はこれ、「しない」のではなく「できない」というのが正しいのだろう。うろ覚えだが、ある美術評論家が言っていた。
現代美術(西洋美術だったかも)について、日本ではその現代美術を消化しつくしていないとのこと。たとえば極めるべき、学ぶべき一つの山とでもいう「現代美術」という存在があるとするならば、その山を極めてはいないのだという。
極めることによってはじめて消化したことになり、そこではじめて現代美術を相手に自在に論じ、価値判断を持てるというわけだ。
つまり、日本という国ではそこが未消化なままだというのである。
だから判断ができない。判断しようにも判断ができない。
だから日本の「現代美術展」を海外で開く場合は、未消化だから「日本の現代美術」ではなく「現代美術の日本」というような紹介やタイトルになるのだという。
日本にも一応「現代美術」と呼ばれる分野があるんですよ、現代美術と呼んでいいかどうかは分からないけど……というような紹介のされ方になると書いていた。
半端なのである。(適切かどうかはわからないけど、新国立劇場の場所ですね。あそこでオペラを観て外に出てくると、車がけたたましい音を立てて走っている。そういう文化なんですね、この国は。何も考えていない)
■いきなりニューズウィーくクのページをめくったら、上記のような記事が出ていたので、ちょっと考えさせられました。
■今日発売になったニューズウィーク日本版(12月5日号)に、お寒い文化大国日本の本質がまさにえぐられ、露(あらわ)にされている記事があった。
指摘しているのはフィガロ紙の記者で、在日フランス商工会議所機関誌の編集長。
東京に続々と誕生する美術館。森美術館、サントリー美術館、国立新美術館……。これは日本人の美術にたいする深い感覚や情熱のある姿からだと思っていた、という。
ところが現実は、なんと貧弱きわまりないコレクションやお粗末な展示で、新しく生まれた施設が「美術館」を名乗るのは「詐欺に等しい」とこの上なく辛らつな指摘である。いや、「ニセモノ美術館があふれている」とまで言っている。
学芸員とは名ばかりで、その実ほかの誰かが選んだ作品を壁に掛けているだけだし、空間は空っぽだし、たいていは企画展専用の「ギャラリー」でしかない、と。
このあたりの指摘はまだまだ序の口で、短い一文のなかに、このあと次々と日本の文化や美術のお寒い現状をあばきだす。
■たとえばルーブル美術館だが、長くにわたって、国外最大の美術展を日本で開いているのには理由があるという。
どんな理由か。お金である。寄付の20%が日本からのものだから、とのこと。同じくポンピドーセンターが国立新美術館にコレクションを貸し出したのは、日本企業からの莫大な寄付があったから。
さらに日本では、芸術家は「ブランド」と見られているとも。「ピカソ・ブランド」であり、「シャガール・ブランド」であり……という具合に。
■そして次が重要だ。(美術館のひとつのあるべき姿です)
金による展示、ブランドの展示――「そこにはすぐれた美術館に必要なものが欠けている。それは、リスクを背負いながらも自らの視点を貫いて作品を選ぶ目、それがない」
そして、お手本として彼はマドリッドの美術館をあげている。
その美術館で体験できる中世から現代までの数世紀のアートの旅は、一人の男爵のコレクションであり、「数々の傑作が対話しており、見る者はそこに参加しているような感覚をいだく。情熱に満ちたコレクションのなかに、一人の男(男爵)の姿が見えてくる」と。
ではなぜ東京では、日本では、ニセモノ美術館があふれるのか。
答えは「不動産会社」だという。日本では、美術館などはたいてい大型の商業施設や高級マンションのそばに造られているという。
それは開発業者が、「文化」を持ち出すことで、「無用なもの(施設)を造る理由になる」からだという。
そして彼はある著名な日本人指揮者が自分にこう言ったとして――。
「パリのコンサートホールはたいしたことはないが、プログラムは素晴らしい。日本のホールは世界でも指折りだが、演目は最低だ」
なぜそうなるのか。
「音楽と違って、建物は目に見える。日本ではそこが重要なんだ」
編集長は言う。
「芸術を愛するふりをしながら、自分では価値判断をしない日本人の二面性」
前述のポンピドーセンターは今、東京にオフィスの設立を計っているとのこと。目的は日本の現代美術の収集である。
「本来なら日本の美術館がやるべきことだ」と編集長。どうやら日本は国の防衛だけではなく、文化まで外国に依存していると結んでいる。
■フランス人の目から見ると、そういうことになるのででしょう。お説ごもっともで、日本人としては恥ずかしいが、でも、すべてがこの編集長氏の言う通りではない。中には独自の企画展などを展開している美術施設もある。
たとえば東京都現代美術館、地方だと水戸芸術館や広島市現代美術館などは特別な企画展などを開いているし、その企画内容もユニークで面白い(私が知る限りだが。どちらかというと現代美術の分野での活動が中心のようだ)。
ただし、残念ながら、それは一部でしかない。現実はやはり箱ものを造るための大きな理由に文化や美術が利用されているのが今の日本といってよいだろう。
「価値判断をしない二面性」とあったが、実はこれ、「しない」のではなく「できない」というのが正しいのだろう。うろ覚えだが、ある美術評論家が言っていた。
現代美術(西洋美術だったかも)について、日本ではその現代美術を消化しつくしていないとのこと。たとえば極めるべき、学ぶべき一つの山とでもいう「現代美術」という存在があるとするならば、その山を極めてはいないのだという。
極めることによってはじめて消化したことになり、そこではじめて現代美術を相手に自在に論じ、価値判断を持てるというわけだ。
つまり、日本という国ではそこが未消化なままだというのである。
だから判断ができない。判断しようにも判断ができない。
だから日本の「現代美術展」を海外で開く場合は、未消化だから「日本の現代美術」ではなく「現代美術の日本」というような紹介やタイトルになるのだという。
日本にも一応「現代美術」と呼ばれる分野があるんですよ、現代美術と呼んでいいかどうかは分からないけど……というような紹介のされ方になると書いていた。
半端なのである。(適切かどうかはわからないけど、新国立劇場の場所ですね。あそこでオペラを観て外に出てくると、車がけたたましい音を立てて走っている。そういう文化なんですね、この国は。何も考えていない)
■いきなりニューズウィーくクのページをめくったら、上記のような記事が出ていたので、ちょっと考えさせられました。















